2008年08月03日

『小鳥の水浴』(レナード・メルフィ作、演出:かわさきひろゆき)

『小鳥の水浴』(レナード・メルフィ作、演出:かわさきひろゆき)

うーん……。

俺は05年にシネマアートン下北沢で見た里見瑤子版に感激し、本作の戯曲を翻訳した池島ゆたか監督による映画版『半熟売春 糸ひく愛汁』にも強く心を動かされた。だから、映画版でヴェルマを熱演した日高ゆりあの初舞台となる本公演も非常に楽しみにしていた。しかし、心に何も残さないまま芝居が終わってしまった、というのが正直なところ。『小鳥の水浴』って芝居はこんなもんじゃないはずだという思いが捨てきれない。

前回の感想はこちら↓
http://zenbar.seesaa.net/article/4998384.html

演出は05年の時と同じかわさきひろゆき氏。フランキー役は前田万吉。この芝居に接するにあたって、いくつか忖度すべき状況があったとは思う。第一に、八時半の最終回に駆けつけると、すでに満席で、主催者側が急きょ、本来予定になかった九時半の回を設けたこと。俺が見たのはその特別回だった。役者陣は喋りっぱなしの一時間の芝居を演じきった後、15分程度の休憩を置いてすぐに同じ芝居に取り組んだわけで、疲れもひどく溜まっていたことと思う。また、高円寺稲生座という劇場は、映画館であるシネマアートン下北沢とは比較にならぬほど狭く小さな舞台。当然、役者の動きも最小限に抑え込まれてしまう。

そうした悪条件を慮るとしても、演技、演出にさえ、何か「確信」を持ったものがなかったという気がする。台詞を噛むなど瑣末なことだ。もう一歩踏み込んだものが、あらゆるものに必要だった気がしてならない。その「もう一歩」というのは何だろう。結局「たましい」とか「精神」とか抽象的にしか言えないけれど、そういうことなんだろうか。フランキーは単に「やりたいだけ」の男ではない。男だから「やりたい」と思う程度のことだ。しかしどうしても彼の下種な部分ばかりがクローズアップされていたように思える。日高ゆりあは初舞台とは思えないほど熱演していた。しかし、映画版のクライマックスで見せた、涙を誘う感情の迸りが形だけに終始してしまった気がする。芝居を見ている間中、ずーっと悶々としてしまった。演劇の難しさについて考えさせられた一夜だった。そしてハヤカワ演劇文庫は、いつでもどこでも手に入るような戯曲ばかり文庫化せず、『小鳥の水浴』を書籍化してください!
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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