2009年01月04日

「テレーズ・デスケルゥ」「田舎司祭の日記」

体調不良。痛みとかゆみとそれによる不眠症および微熱が日夜波状攻撃を仕掛けてくる。この辛さは本人じゃなきゃわからん。こいつは当面続く。日比谷公園もガザ地区も無茶苦茶や。かといって何か行動を起こすこともままならず、ひたすら家で寝込む日々。師匠の新年会も泣く泣くキャンセル。さればこそ聖なるものへの逃避願望も否応なしに高まる。心とからだを充分に休ませながら、モーリアックの「テレーズ・デスケルゥ」とベルナノスの「田舎司祭の日記」読む。

前者は「ぼくの知っているのは、ただ泥のようにきたない肉体にかくれまじった心の物語だ。テレーズよ、その苦しみがあなたを神まで導くことをぼくは願っていた」「だからあなたと別れるこの歩道で、今後もあなたにはキリストがついていかれることをぼくは願っているのである」といった冒頭の数行が素敵。それだけですばらしい悲劇を一冊読み終えたような気分になれる。遠藤周作の気負った訳文が元気(いや原文読めないから勝手な印象だけど)。あんまり”カトリック文学”という抹香臭さも感じなかった。自由を求める女性が犯罪を犯す。その魂の遍歴を追いかける中編。でも微熱のまんま読んだので熟読したとは言いがたい。また読みます。

「田舎司祭の日記」はもう何度目だろう、近年もっとも繰り返し読んでいる小説で、読めば読むほど主人公の若き田舎司祭の存在が身近になっていく。最初に感じたとっつきにくさが取れ、しだいに作品の輪郭が把握できるようになっていく。文章がすんなり頭に入るようになっていく。それでもこの作品の一体何に惹かれて何度も紐解くのか、結局のところはわからない。いずれにせよ今後まだまだ繰り返し読むことになると思う。

「わたしに相応なヒロイズムはヒロイズムを持たないことであり、わたしには力が欠けているのだから、いまでは自分の死が卑小であることを、できるだけ卑小であることを、わたしの生涯の他の出来事と異ったところのないものであることを望んでいる」

この謙虚さ、誠実さ、愚直さが時として彼を「神の手」に仕立て、悩める誰かに救済をもたらす。彼の立場上、信仰による救済も重要だが、彼はイエスの教えを説くというよりも、彼自身の幼さ、愚かさ、無垢の輝きを無心に押し付けることによって、知らず知らずのうちに相手を救うのである。ここに描かれる「神」は「知らず知らず」のうちにしか彼に力を貸そうとはしない(だが仔細に読むと、いたるところで彼の周りにちいさなちいさな霊的現象が起き続けていることに読者は気づくはずである)。しかも「救い」は必ずしも美談に終始せず、彼に苦い現実を突きつけて終わる。たとえば救ったばかりの相手がその数時間後に頓死する。人は彼にその死の原因を見い出そうとする、といった具合だ。

美しさを求めながらも、無神経な言動や行動で他人を傷つけ、不愉快にさせるリアルな人間像。生々しく一筋縄ではいかない現実。きれいごとの「愛」よりも、まずは現実社会に深く根差す「貧しさ」を徹底的に見据えること。内なるきれいごとを荒々しい現実にこすりつけてみること。読むたびに「これって僧院を出たアリョーシャ・カラマーゾフの物語だよなぁ」と思うが、そのナイーヴな基本構造って文学そのものの大きな魅力の一つじゃないかとも思う。

死ぬ前に一冊だけ本を読んでいいと言われたら、今は迷うことなく本作品を挙げるだろう。

ぼちぼち仕事始め。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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