2009年01月09日

「日本の十大新宗教」島田裕巳著

悪い癖で、筆が止まるとその辺に積んであった本に手が伸びる。島田裕巳の「日本の十大新宗教」。ずいぶん前に買っておきながら手つかずだったもの。タイトル通りの内容。新書らしいコンパクトなまとめ方で、日本を代表する新宗教(と呼ぶそうな)について気軽に知識を吸収できる。中でもやはり出口王仁三郎の魅力が傑出。おもろかった。

中世の鎌倉仏教もそうだし、ここに取り上げられる多くの新宗教も、幕末や戦中・戦後の乱世に誕生している。島田裕巳はこう書いている。

「よく「苦しい時の神頼み」といった言い方がされる。たしかに、人が宗教に頼るのは、悩みや苦しみを抱えているときである。だが、本当に苦しいときには、人は神頼みはしない。不況が長く続き、深刻化しているときには、豊かになれる見込みがないので、神仏に頼ったりはしない。むしろ、経済が好調で、豊かになれる見込みがあるときに、人は神仏に頼る。高度経済成長は、まさに神頼みが絶大な効力を発揮した時代だったのである」

すごく説得力があった。なるほど神頼みの実効性がうっすら保証されているところがミソなのな。宗教には「救い」だけでなく、人生に活力を与えるという側面もあるちゅうことや。ちなみに上記は創価学会について触れた項での記述。この本では、現世利益の追求を肯定し、強大な組織力を誇り、社会に対して積極的なアプローチをかける宗教団体が勢力を増し、個人の生活をひっそり支えるだけのささやかな宗教が力を失っていくさまが描かれる。当然ながらどちらかいいとも悪いとも書いていない。ただ現実はそうだと言っているだけだ。

おいらには創価学会の友人もいれば、立正佼成会や神道系の宗派の家庭に育った友人もいる。信仰についてもよく話す。共有できる価値観や問題意識もあれば、決してわかりあえない部分もある。話が白熱し、ある瞬間、その「わかりあえなさ」をお互いがふっと確かめ合う。そういう瞬間がとても大事だなと思う。信仰にはそういう他者性をむき出しにする性格がある。わかりあえること以前に、わかりあえないことを知ることこそ、社会性を持つってことだなと思う。その前提で関係を築いていくと、それはわりかし長続きするものとなる、というのが個人的な感想。

ちなみに母方のおばあちゃんは金光教の熱心な信者だった。岡山の教会本部へ連れていかれたこともある。おばあちゃんとは同居していなかったが、その教えを受け継ぎ、うちではご飯を炊くたびにご神米をひとつまみ入れたり、人間がご飯を食べる前に、神様のご飯を神棚にお供えしたりした。その程度のことだった。それ以外になにもなかった。その習慣もいつのまにか家庭生活から消えていた。「神様」という言葉には清らかさと威厳と、何か純真無垢なものがある。そうしたものへの感謝や畏敬の念を、少なくとも食事の時に軽く意識する。……ずいぶん後になって、俺は神様と共に暮らすあの感覚が好きだった事に気づいた。その非常に素朴で原始的な信仰のあり方は、おばあちゃんの口癖によくあらわれていた。「神様のおかげ」がそれだ。人は誰かに縋りたいと思うと同時に、誰かに感謝したいのである。

けれどそれは金光教が比較的穏健な宗教であり、おばあちゃんが清貧を体現したかのようなすばらしい人格者だったからにすぎないかもしれない。神様という言葉に対してアレルギーや憎しみを抱くことなく成長できたというのは、自分にとってラッキーなことだったと思っている。何らかの可能性というものが、そこにはつねにある。

……俺は年明け早々なんて抹香臭い話をしているのだろう。
posted by minato at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。