2009年05月22日

『薔薇の館』(作・遠藤周作、演出・西田正)

どこかで誰かが泣いている。どこかの誰かの悲しい気持ちを、何の因果か俺が背負わされている。といっても殆どの人は意味がわからんだろうが、もちろん俺にもよくわからない。このところ不眠不休で内職に取り組んでいるので、神経過敏になっているだけかもしれん。

どこの誰だか知らないけれど、泣くなよ。

中板橋の新生館スタジオで芝居『薔薇の館』』(作・遠藤周作、演出・西田正)見る。どうしても見ておきたかった。原作の戯曲の感想はこちら↓

http://takehikominato.seesaa.net/article/112213368.html

物語の大半で教会の神父=“父”は不在である。おなじみの「神なき世の悲惨」は群像劇の形で展開される。信仰上の立場から徴兵を逃れ、脱走・収監の挙句自殺とも知れぬ死を遂げてしまうクリスチャンの高志、高志の許嫁で気がふれてしまうとし等など、みんなは降りかかる悲劇に耐えきれず、神を求める代わりに無能な修道士・ウッサンに救いを求める。しかしウッサンは人を救えるような器ではない。ウッサンは疲弊し、自殺と看做さざるを得ない形での死を遂げる。

「神」などという、いるかどうかもわからぬものに依拠した人間たちの苦悩や死は、冷めた目で見れば喜劇でしかない。

風見鶏で、庶民の典型であるような田端や、「人の不幸は蜜の味」とうそぶいて人間の本質に開き直った勢子、無神論者でニヒリストの清岡といった、信仰とは無縁の者たちは尽く生き延びる。だが信仰を持つ者にも持たぬ者にも、戦争は悲劇の雨をあまねく降らすのである。

抑留地から帰還した神父と、悲劇の只中に居続けた清岡が、ラストシーンの一個手前の場面で対峙する。無神論者の清岡はしつこく「神はいない」と言い続けてきた男だが、そこまでの拘りは神を切実に求める気持ちと同根だ。やがて彼は、あまりにも無力で犬のように哀しい目をした、死んだウッサンの向こうに神を透かし見るようになる。復活を信じることができそうだという。その瞬間、舞台には高らかに鐘が鳴り響く――。

限りなく”護教的”な結末で、原作を読んだ時もそうだし、舞台を見た今もそうだが、けっこう考え込んでしまった。復活や神の存在の確信という、最高に「劇的」な出来事は否が応でも感動を催す。一本の宗教劇の結末としてはこれが理想だと思う。暗い夜の果てに光を見出すわけだから、観客にカタルシスを与える上でもこれ以上の結末はない。それはそれで良いのだと思う。ただ俺には復活というものがよくわからないのだった。

話は飛ぶけど、聖書に描かれる奇跡についても、自分は信じるとか信じないという問い自体立てたことがない(でもカラマゾでアリョーシャが「カナの婚礼」が好き、というエピソードは妙に好きだな。アリョーシャ、かわいい)。ただしそうした文脈ではない「奇跡」そのものについては、起こりうるもののような気がしている。いやそうなると「奇跡」の定義が必要になってくるのですが、これもようわからないので省略。なんせ奇跡は起きると。起きてもおかしくはないだろうなと。問題は、奇跡が起きた後も人生は続くということだ。そして奇跡と悲劇って実は表裏一体なんじゃないの? ……といったことは、この劇とは全然関係ないのでここではふれませんが、その手のことを考えさせられる体験としても、見に行って良かった。

清岡役を、同じ場所で見た『棟梁ソルネス』のソルネス役をやっていた柳本達也が好演。すねたような顔つきとなで肩が、社会主義運動の夢打ち破れ、いまやすっかりニヒリズムの底に沈んでしまった男のやさぐれた雰囲気をリアルに演出している。俺この人好きだわ。

こういうお芝居は闇の中に石を投げるようなもの。大変失礼ながら、理解も評価も人気も、もちろん利益も得辛いだろうと思う。でもやるしかない。まるで自分に言い聞かせるように。やるしかない。
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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