2009年06月26日

『すべての死者よ、甦れ! 〜池島ゆたかが見た、生きた、ピンク映画傍証50年史〜』(PG.NO.105)

14485937.jpg

『すべての死者よ、甦れ! 〜池島ゆたかが見た、生きた、ピンク映画傍証50年史〜』(PG.NO.105)

すばらしかった。全174ページ。熱に浮かされたようにして一気に読んだ。読み始めたら止まらないのだ。ぐるぐると渦巻く猥雑なエネルギー、圧倒的な情報量、何よりもその見事な”語り”の芸に圧されて、笑ったり、泣いたり、興奮したり、唸ったりしながら、あっと言う間に読み終えてしまった。撮影現場の熱気、人間の匂い、男の匂い、女の匂い、性器の匂い、唾液の匂い、獣の匂い、愛と笑い、恋と涙、セックスと別れ……ありとあらゆる要素がギュウギュウ詰めにぶちこまれ、途方もない生命力が横溢した一冊に仕上がっている。豊穣なるドキュメントとして、これこそ全国の本屋で流通させるべきである。「本屋大賞」なんて、ほんらいこういう作品のために存在するんじゃないのかよ! これだけ面白い本はそうそうないぞ。

俳優として現場に入り、監督デビューし、去年ついに100本のピンク映画を撮り切った池島ゆたか監督の半生を尋ねてみると、すなわちそれがピンク映画史になる。60年代アングラ文化の貴重な証言にもなるし、AV業界黎明期の話にもなる。俺みたいな半可通が知らないような、無数のピンク映画が出てくる。ピンク監督たちの名前と横顔がどんどん晒されていく。そしてスクリーンを彩ってきたであろう、裸の女優たちが次々と現われては消えていく。松尾スズキが池島監督の芝居の台本を書いていた話とか、大杉漣、蛍雪次郎といった、今では一般映画で有名な俳優たちの素顔とか、話題には事欠かない。

また本書の中には、今では見ることもかなわないであろう、まぼろしのピンク映画のストーリーや、そのワンシーンが、池島監督による自演で再現される場面が多々登場する。巧みな話芸もあいまって、その見果てぬ映画のことを想像する時間のなんと楽しいことか。「見ることが出来ない映画」は「忠治旅日記」やら「浪人街」ばかりじゃないのだ。

いまだに「ピンク映画とAVってどう違うんですか?」と聞いてくる人がいるので、ごく簡潔に言ってしまうと、ピンク映画というのは、商業映画なんです。いわゆる男女の本番行為を見せるための映像作品ではなく、裸、あるいは濡れ場=セックスシーンを売り物にした35ミリのフィルムで撮られた映画である。従って、ポルノかどうかと言えばポルノなんだろうし、エッチな映画と言えばエッチな映画である。ただし、その枠内であらゆる個性を持った監督たちがいて、一筋縄ではいかない映像表現が許されているので、「ピンク映画とはこういうものだ」とは簡単に言いにくいのである。だから、手前味噌で恐縮ですが、一般映画では成立しにくい「イサク」みたいな超・抹香臭い映画が成立してしまったりするわけだ。

それはともかくとして、何と言っても女優たち。俺は「AV女優」とか「名前のない女たち」シリーズとか、もちろん「女優・林由美香」とか、裸産業に取材したルポや書物が大好きなんだけど、ピンク映画の場合は、それに加えて、映画作り、カツドウ屋の話になるからたまらない。そのことを意識して芝居に目覚める女優もいれば、てんで無頓着なまま演技を続ける女優もいる。

一ヶ月も風呂に入っておらず、風呂に入るとぶわっと垢が浮く女優、監督の家にだらだらと住みついちゃうフーテン、演技なのに本当に欲情してしまい、挿入を求める女優、現場の人間とくっついちゃう女優……。日高ゆりあが初めて母親に自分の仕事を打ち明けるエピソード、佐々木麻由子がピンクの現場を見て、引いちゃって帰っちゃう話、それからもちろん林由美香――。そんな話が20年、30年と遡って語られるわけだから、ピンク映画ファン歴の長い人にはたまらないと思う。

これは男だけが感じる弱い感傷なのかもしれないけれど、聖と俗を体現する彼女たちにはいつも一抹のさみしさが付きまとう。

池島監督の『超いんらん やればやるほどいい気持(next)』を見た人ならわかると思うけど、あの作品には、自らを「映画」と名乗る謎の女(日高ゆりあ)が登場する。映画はその「映画」という女が何者であったかを終盤解き明かしていくわけだが、それは、主人公の映画監督が監督デビュー作に抜擢した女優なのだ。「映画時代」の取材の時にも出てきた話しだけど、新東宝の福原さんの意見によれば、それは一面的には林由美香を仮託した役でもあるわけだ。林由美香を仮託した役というのは、すなわち「映画」と名づけられ得る女優たち、女たちのことなのだ。

からだを売りながら夜の街をさすらう女。そういう風にしか生きることのできない女。そういう女に「映画」を見出した監督は、彼女を自分のデビュー作に抜擢する。だが彼女は、映画で濡れ場を披露した後に、夜の街で客に殺されてしまう。『next』が胸を打つのは、おそらくそれがどこからともなく現われては、パッと一瞬の輝きをスクリーンに刻みつけ、またどこへともなく去っていく、名もないピンク女優たちへの切ないオマージュになっているからである。個人的にもそういう女優さんを知らないわけではないので、あの「映画」の末路には本当に胸が苦しくなった。彼女たちの存在は、ある意味ではこうした業界の暗部とさえ言えるのかもしれない。ましてやその裸身にキャメラを向け、演技指導し、あるいは照明を当て、前貼りを貼り、あるいは演技者としてからだとからだを合わせ、舌を絡め、愛撫しあった関係であれば、尚のこと彼女たちの存在は心に残るはず。この書物には、そうした無数の女たち、女優たちの群像が、あちこちに蠢いている。

……だがしかし。

そうした女たちの哀れさやさみしさや悲しみを、池島監督は湿っぽく語ることを徹底的に拒否している。その存在自体を丸ごと飲み込んで、「ハハハハハ!」という底抜けに明るい笑いへと昇華してしまう。そう、喜劇も悲劇も愛も死もひっくるめて、「人生を楽しむ!」という姿勢が一貫しているのである。必要なのは感傷に溺れることじゃない。斜に構えて達観したふりをすることでもない。生き続けること、映画を作り続けることなのだ!

読んでいてこれだけ元気になれる本というのもめったにない。俺は読書量が少ないので、すぐにヘンリー・ミラーのことばかり持ち出しちゃうんだけど、まさにあの破天荒な生と性の饗宴をここに見出し、ひたすら感動してしまった。

だからさ、死ぬなよ! 人生って絶対面白いから。赤裸々に生きてみようよ。やることないなら映画やってみようよ。そういうテンションがここにはある。今すぐ成人映画館に飛び込みたくなる。今すぐ映画を作りたくなる。「すべての死者よ、甦れ!」ってなんて素敵なタイトルだろうと思う。これは死んでいった人々についての回想録なんかじゃない。常に現在進行形、常に「next one」を追い続ける男の熱いメッセージなのだ。死んでるのか生きてるのかよくわからないやつらへ向けた、「生きろ!」の書なのだ。

俺は池島監督の現場を見たことがあるわけでもない。でも俺が取材で接したり、mixiの日記を読んだりした中で言えるのは、池島さんは知性と教養を基盤とする人だ。そして「今、この瞬間」をとことん楽しもうとする人だ。スケベな人だというのは映画見ればよーくわかるし、若いころ(今も?)相当遊んだであろうことも匂い立つ。なんせ、楽しむってことなんだ。自分に自信がある人っていうのは、他人を貶して自分を立てる、みたいなみみっちいことをしない。だから、批判的な言辞は全編を通して非常に少ない。あっ、四天王以降のピンク監督へのちょっとした批判はあるけど、やっぱり説得力はある。また、聴き手が松島さん(ピンク大賞の名司会者)であることが最大の強み。池島監督に負けず劣らずお喋りなあの方の、該博な知識とピンク映画への偏愛がこうした語り口を可能にしたことは言うまでもない。

この書物を見て分かることは、四の五の考えずにやっちゃう、ということだ。変にしゃちほこばって気取らないということだ。

「ケツの穴を見せるって俺はよく言うんだけど。人に見せたくない、自分の恥ずかしい部分をね。でも、それを見せなければ観る人は納得しないんだよ」

「映画ってのはみんなで面白がって撮るものなんだよ。その結果が、いいも悪いもないじゃん。結果、観る人が喜べばダブルでうれしいけど…、とにかく、やってる者が楽しむことが基本だよ」

「軽いホンでも関係ない。いや、軽いもんなんてない! やっぱり作る時は同じなのね。映画は常に最初から全力投球じゃなくちゃダメ。頭っからグワーッといかないと。やっぱ常に必死になんなきゃいかんなと」


こうした言葉に100%賛同します。

ただただ、必読!

http://taco.shop-pro.jp/?pid=14485937
(タコシェオンラインショップ)
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。