2009年10月01日

『特別な人』(ユージン・オニール作)

『特別な人』(ユージン・オニール作)

二幕の短い戯曲。上演しても一時間くらいだと思うけど、これがすばらしかった。これこれ、こういうこと! すべてがどまん中。

話は単純。幼馴染の船乗り、ケイレブを心から愛し、彼との結婚を二日後に控えた二十歳の乙女エマ。だがケイレブが給水に立ち寄った島で、異教徒の女と一晩だけの過ちを犯したと知った彼女は、その場で婚約を破棄してしまう。ケイレブを理想化し、美化したあまりの深い幻滅。エマを愛するケイレブは、なんとか翻意を迫るが、彼女の決意は変わらない。ケイレブは「他の誰とも結婚しねえ。三十年だって待つよ」と告げる。

それが第二幕になると……

三 十 年 経 っ て い る 。

五十歳となったエマは誰とも結婚せず、孤独な変わり者の老女として侘しい毎日を送っている。ケイレブもまた独身を守り、エマへの思いを貫き通していた。しかしエマにはたちの悪い若い男、ベニーがつきまとい、さびしさから現実感覚を失ったエマは、彼が金をせしめるための嘘のプロポーズを受けてしまう。そこへ、「今夜で三十年経った」とケイレブが訪れる。だがベニーとのありえない結婚を受諾したエマは、ケイレブの二度目のプロポーズを断る。やがてベニーのプロポーズが虚偽であり、あまつさえ「あんたみたいな死にぞこないのばあさんといちゃついたあげくがこのざまだ。娘みてえに顔中塗りたくって、しゃらしゃら着飾りやがってよ!」と罵倒され、ようやく正常な心を取り戻す。だがその時にはもう、ケイレブは首を吊って死んでいるのだ。どうやらエマはケイレブの後を追うらしい、と仄めかされるところで劇は終わる。

なんですかこの小傑作は。現実に対する平衡感覚を失い、自己を客観視できず、彼女自身にしか理解できない、ありえない理想に生きていくエマ。彼女のキャラクターが痛すぎて……たまらない。なんでか知らないけど、俺はこういう人が大好きなのだ。あわれで、みじめで、騙されやすくて、でも極端に繊細で。心の隙間に付け込まれ、もてあそばれた揚句、耳をふさぎたくなるようなひどい言葉で徹底的に傷つけられてしまう、そういう女。彼女を何とか利用しようとするあくどい男と、彼女を救いだそうとして結局果たせない男。こうした関係性、こうした男女観。大好き。たぶん、繊細な者が暴力的な世界で手ひどく傷つけられていく――それが悲劇であると、実感レベルで感じているからだと思う。

本書は法政大学出版局というところから出ている「アメリカ演劇資料集」の「T」。図書館の閉架にあるものを借りてきた。それによると、1920年の初演時、興行的に儲けは出たが批評は厳しかったらしい。本の監修者までもが解説で「単調な一幕目をはぶいて、二幕目から話を展開すれば、もっとまとまりのある作品を得られた」的なことを書いてある。監修したくらいだから翻訳にも関わったろうし、オニールをはじめとするアメリカ演劇に精通した偉い人なんだろうけど、無理解だなぁ、と正直思った。一幕はちっとも単調じゃないし(エマの頑なな拒絶は最後までスリリングだし、机に置かれた物言わぬ聖書の存在はとても大きい)、その美しい無垢な時代があるからこそ、二幕目のあがきと悲劇が胸を打つんじゃん、と。……いやいや、しかしこうした人々の尽力で本書と出会えたのだから感謝すべきである。

作者のオニールは当時浴びせかけられた批判に対して、こう反論している。

「『特別な人』はわれわれすべての中にいる永遠のロマンチックな理想主義者、永遠の敗北者の物語に過ぎない」

「揚げ足取りをする人々が彼女の行動をうんぬんする前に、私と同じくらい彼らの中のエマをはっきり知ってほしいのである」

オニール万歳! 人に見せるというのはそういうことだし、見てもらうってこともそういうこと。ほんとに、そういうことだと思います、ハイ。特に後者の発言が投げかけている問題ってとても大きい。

しっかし、観客と作り手と批評家の関係って、90年前のブロードウェイからたいして変わってないのかな……。
posted by minato at 22:53| 東京 ☁| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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