2010年04月11日

『北回帰線』ヘンリー・ミラー著

年末からこっち、かなり慌ただしく日々が過ぎて行き、先週の『イサク』上映終了でひとまず落ち着きを取り戻した。とたんに気力・体力を根こそぎ奪うような体調不良に見舞われた。どっと疲れが出た。

とはいえ、ぼんやり何もせずに過ごすほどの、金銭的・時間的・精神的余裕もないので、地道にシナリオの直しや内職をこなしつつ、長らく机の上に放置してあった『北回帰線』を手に取った。

最初にこの書物を開いたのは、確か高校生の時だったと思う。いや、中学生かもしれない。よく覚えていない。ただ、自分の人生のずいぶん早い段階からこの書物は傍にあった。ことあるごとにその存在、影響を意識させられた。オレンジ色の表紙と魅惑のタイトル。その分厚さ。ぎっしり詰まった情熱の言葉……。

のっけから、アナイス・ニンによる強靭な讃辞に煽られた。たかが数ページの讃辞を読み通すのも十代の自分には骨だった。「ぼくはヴィラ・ボルゲエゼに住んでいる」という一文に始まる、熱に浮かされたような調子の文体にあてられ、ぐいぐい引き込まれたものの、夥しい情報量、豊穣な語彙にとっつきにくさを感じ、十代の間に最後まで読み通すことはかなわなかった。以来、何度も何度も手にとってはその落ちることのない高いテンションに魅了され、煽られてきたが、最後まで読み通したのは二十代も半ばを過ぎてのことだった。

30年代のパリにたむろする出鱈目なボヘミアンたちの群像を活写しつつ、世界そのものに対する愛と情熱と怒りとアンチテーゼをぶちまける狂騒の果て、セーヌ川のほとりで、この偉大な書物は静かに幕を下ろす。ヘッセの『シッダールタ』さながらに、物事が絶えず流れゆくこと、それ自体に耳を澄ませることによって得られる、精神の澄みきった境地――。

今でも、早稲田南町のボロアパートで、夏の昼下がり、そっと最後のページを閉じたときの深い感銘は容易に忘れ難い。長大な物語を読み終えた自分へのねぎらいももあったろう。長年の宿題を片付けたという達成感もあった。しかし、これはひとつの宇宙ではないかという、大仰な感動がそれらを完全に上回ったのは確かなことだ。これを読まずに人生が終わらなかったことを深く感謝した。

文字が大きくなり、読みやすくなった現在のバージョン(新潮文庫版)を数年前に買い、気が向いたときにところどころ読んでいたが、きちんと読了に至ったのは実に十年ぶり。今読み返してみると、難解と思われるような観念はなく、尽きせぬ饒舌とは裏腹に、鼻持ちならぬ衒学的な姿勢などそこにはなかった。皆無だ。

すがすがしいほどに、性と生、生命それ自体の謳歌が奏でられているに過ぎなかった。僧侶や教会をこばかにする描写もあるにはあるが、キリスト教社会への反発も、著者ヘンリー・ミラーにおいては些事に過ぎず、資本主義社会、アメリカ合衆国、ヨーロッパという風土への批判も風刺も苛立ちも、青筋立ててがなりたてるほどのことではない。すなわちこれは異議申し立ての書ではない。嘲り笑いや、侮蔑や、痛罵や、差別・偏見の言葉に満ちあふれているものの、それはちっぽけな自尊心を満足させたり、無意識に潜む不安や怯えから出たものではない。彼はここで、暮らしを謳歌すること、酒を、食事を、セックスを、友人らとの交わりを楽しむこと、人生を愉快にやっていくことを謳いあげているにすぎない。少なくとも俺にはそう見える。

ここに描かれるヘンリー・ミラーの生活は誠にけっこうなものである。当時パリにうじゃうじゃいたという一文無しのアメリカ人で、友人知人の家を泊まり歩き、金をせびり、目につく限り女の尻を追いかけまわし、あちこちで乱痴気騒ぎをやらかし、仕事は長続きせず、誰かに叱られたり、愚痴をこぼされたり、ヒステリーの炸裂に耳を傾けたりしているばかり。無責任な放浪者でありながら、いやそれゆえに、彼は森羅万象に対してとことん優しい。すべてを楽しもうとしている。貧窮に陥ったり、閉口するようなつまらぬ人物や事態に直面したり、誰かに怒り狂っているときでさえ、どうやら彼は心底愉快な思いをしているらしいのだ。

「いまではぼくは、自分の背後にあるもの、自分の前方にあるものに、一顧もあたえない。ぼくは健康だ。いやしがたいほど健康だ。悲しみもなく、悔恨もない。過去もなく、未来もない。現在だけでぼくには十分だ。その日、その日。今日! 美しき今日!」

これはもう、ファッキン「文学」である。今の自分にストレートにしみこむ言葉だ。

随所に名フレーズが飛び出す作品だが、今さらながらこの作品から受けた影響に唖然とする思いだった。生きにくい世の中だが、ずいぶんこの本から処世術を学んできたような気がする。「作品とはその人自身である」というヘンリー・ミラーの主張(まったくもって賛成である)にのっとって言うと、この作家自身に多くを助けられてきた気がするのだ。

さる百貨店の物流倉庫で働いていた頃、正社員にどこかの大学の文学部出身の男がいた。彼は俺が読んでいる本を日ごとチェックしては、「それはむかし読んだ」「そんなもん読んでるの?」などと余計なコメントを付け加えた。しばしば小説の話で盛り上がりもしたが、本当のところで、彼は、たかが専門学校卒のフリーターが、古典的な小説を読むという現象がどうにも理解しがたいようだった。

彼は他の社員の陰口から察するに、無能であり、ごく控えめに言って矮小な人間だったが、それでも俺は彼が好きだった。彼は、その純粋すぎる心のゆえに、若いうちから文学にかぶれてしまい、現実生活というものをありのままに受け止めることができないのである。そんな悲哀を体全体に帯びていた。そんな人間を嫌いになれるはずがない。映画好きの人間がたいてい脆弱な精神力しか持ち合わせていないのと同じことだ。すなわち親近感を抱かざるを得なかったのだ。

今から考えると、彼のような人物に救済をもたらすのがこうした作品なのではないか。けれども、おそらく彼はヘンリー・ミラーを好くことができないのではないかと思う。この書物の哲学を受け入れるには、少しばかり大人になりすぎていたから。社会人である自分にこだわり過ぎていたから。

月給や、安定した暮らしや、社内での地位や営業成績や、世間的評価、社会的地位がどうしたっていうんだろう。仕事ができないからってなぜ落ち込む必要があろうか。確かに、自分の現在と将来=金に利用され、振り回されるのが現実生活。俺自身そのことはいやってほどによくわかってる。だが、それがすべてではないということを、途方もない説得力と実感をもって訴えかけてくるのが、この作品である。

金のことばかり考え続けていても、それは少しも本質的な問題の解決にはならない。俺はバカみたいに金を稼いできた「社長」と呼ばれる人間を数人知っているが、彼らはビジネス面において冷徹な手腕を発揮しながらも、一方では口をそろえて「金がすべてではない」という。世界の真理なるものに接近しているのは彼らであると俺は思う。

大金が人生を豊かにするのではなく、その人の考え方、生き方が人生を豊かにするのである。実にシンプルなことだ。もちろん、金さえあれば解決できることばかりだというのが、自分の実情ではある。だがさしあたりそんなことはどうでもよい。少なくとも『北回帰線』の世界に浸っている間は、身ひとつで生きていく勇気と力を存分に感じることができた。自分にとって、そんな書物は稀有である。

もはや十代のころの感激をもって読むことはできない。しかし、自分にとって、太陽のような文学、太陽のような哲学があるとすれば、まさに『北回帰線』こそがそれである。これまでも、これからもずっとそうだ。財産とはこういうものである。
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(2) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
村上春樹の小説の言い回しを真似した文章ではなく、自分の言葉で文章を書いた方がいいと思います。そういうのは、すぐに分ってしまいます。
Posted by 匿名 at 2012年11月22日 21:00
斬新なご意見、感謝です
Posted by minato at 2012年12月10日 00:41
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