2010年09月08日

『海炭市叙景』(佐藤泰志著)

『海炭市叙景』(佐藤泰志著)

映画化作品への期待値があまりにも高いため、10月の文庫化を待たずに「佐藤泰志作品集」(クレイン)で読んでしまった。

先に書いておくと、『海炭市叙景』は第一章「物語のはじまった崖」9編、第二章「物語は何も語らず」9編の全18編からなる。ここまでが冬と春で、その後、夏と秋の物語がそれぞれ9編ずつ、計18編、書かれる予定だったという。

だがそれはかなわなかった。1990年10月9日、佐藤泰志は41歳で縊死したからである。

『海炭市叙景』の舞台・海炭市は、著者の故郷である函館をモデルにしているという。連作短編集だが、この18編にそれぞれ直接的な関連はない。ただ、ある章の主人公が心に思い浮かべている人物が、次の章の語り部となったり、街で起きた事件の情報を住民たちが共有していたり、といった微かな繋がりはある(ない場合がほとんどだが)。また、たとえば路面電車の運転手が語り部を務めるエピソードのずっと後に、職安の窓口で働く男を主体とした話の中で、建物の前に路面電車が停まったりすることがある。それを運転しているのが前出の彼なのかどうかはわからないが、少なくとも読者は一瞬、あの運転手のことを脳裏によぎらせる。

そのような形で、さまざまな職種や立場の登場人物が入れ替わり立ち替わり現われる。さらには作者による丁寧な情景描写の連なりによって、次第に人口三十五万人の海炭市が立体的に浮かび上がって来る仕掛けだ。

その始まりを告げる第一章の1「まだ若い廃墟」は、お正月だというのに揃って失業者となってしまった若い兄妹の話だ。早くに両親を亡くし、貧しいアパートで寄り添うように生きてきた兄妹は、苦境を笑い飛ばすように、部屋にあるありったけのお金を集め、雪深いロープウェイへと向かう。観光客に交じって初日の出を見るためだ。そのありったけのお金は、たった二千六百円である。だが、一体何が起きたのか、妹は朝の近いロープウェイの待合室で、どこかへ消えた兄の帰りをぽつんと待ち続けるのである。「まだ若い廃墟」の最初の一行は「待った。」だ。この一行、そして最初のエピソードが、『海炭市叙景』全体を覆う仄暗いトーンを決定づけ、人間は“それ”を「待っている」だけの存在であるという認識が徹底される。自分はこの短い作品の最初の数ページを読むだけで、ぐっと心をつかまれ、作者への全幅の信頼を寄せながら、18編を最後まで読み通すことが出来た。

この作品の最大の魅力は簡明な文体にある。いや、簡明に見せるために、作者が紡ぐ一語一句に対する恐ろしいまでの執念というべきか。文章自体は読みやすく、透明感すら漂わせているが、その背後には小説家が歯を食いしばり、軋ませながら、執筆に取り組む姿勢がひしひしと伝わって来る。

どのエピソードも、いわゆる「劇的」なことは何一つ起こらないし、起きたとしても、それは他のエピソードに比べれば、といった程度のことでしかない。多くは、ある短い時間に起きる個人の心理の変化を綴っているだけである。そこにはみじめな人間もいる。卑小な人間もいる。ズルイ人間もいる。作者は誰のことも裁きはしない。小説は倫理を孕む、というか、倫理そのもののような性格を持つが、誰かを裁くために書くものではない、という信念は終始一貫している。

底辺労働や貧しい暮らしに身を置く人々の生活が、その匂いや、体温や、肌触りを伴って丹念に描出される。中流の人物もいる。子どももいれば老婆もいる。現実にさらけ出されず、他者との会話を成立させず、したがって意味を形成しない、終わりなきモノローグが、人々の暮らしぶりや生きざまを、いま俺がこれを書いている最中、窓の外で降り始めた初秋の雨のように心に沁み込ませてゆくのだ。

ところで自分は36歳である。東京で暮らし始めて18年が過ぎた。人生の半分を故郷から離れて過ごしてしまったということだ。日々の忙しさにかまけているせいか、今では過去のことを思い出すことも少ない。だがこの作品を読んでいる最中、ずっと故郷での18年間を想起し続けていた。地方都市の生活というものを、ごく自明のものとして受け入れていたあの日々。懐かしさと、多少の疎ましさを感じさせる古い記憶。高校時代、新聞配達をしていた頃、夕方から夜にかけて集金に訪れた家々の玄関の向こうに、それぞれの暮らしがあった。この作品はその時垣間見た人々の小景を妙に思い起こさせた。今にして思えば、あの頃は孤独だった。

第二章に至ると、街の変貌が小説世界に空疎さを忍ばせ始める。産業道路の両脇に更地が増え、山が切り崩され、首都(札幌らしい)から移り住む若い者たちが増え、海炭市はどこにでもある画一化された風景を持つ、無機質な地方都市になってゆく。それに抗う者もいれば、希望を見出し、喜ぶ者もいる。第二章の18編はどれも、人物の感情の密度という点では希薄化された印象を与える。それなのに、虚無感や、苛立ちや、鬱屈といった、それまでは抑制してきた感情の表出が、次第に止められなくなっていく予兆を湛えている、そんな感じがする。

しかしそれは劇的な何かを外部にもたらすわけでもなく、大きな空虚さの中へ、不毛な振舞いとして放置されているようなさみしさを伴う。もしかするとそれは、80年代の終わりと、90年代の到来を意味しているということなのかもしれない。

物語は第二章の18「しずかな若者」で(少なくとも)幕を閉じる。同じ型の墓石が三千以上並ぶ墓地の下で、ひとり夏を過ごす若者の物語。若い娘との出会い。通いつめるジャズ喫茶。気ままな別荘暮らし。まるでエリック・ロメールの映画のようだ、などと愚にもつかぬ印象を持っていた矢先、文中にジム・ジャームッシュの名前が不意に出てきた。

亡くなった作家と、ジャームッシュの名前に憧れを抱いた高校生の自分が、作家の晩年、確かに同時代を過ごしていたことが、妙に生々しく感じられた。幕切れの眩いような鮮烈さが、「まだ若い廃墟」の「死」のエピソードと対照的に配置されていた。心に鋭い痛みが走った。

自分は恥ずかしながら、熊切監督によって映画化されなければ、この良質な文学作品を紡ぎあげた佐藤泰志という作家の存在を知ることもなかったと思う。『海炭市叙景』という小説を読むこともなければ、全集の解説を福間健二さんが手掛けておられ、福間さんが報われぬ表現者の守護天使のような存在であることを痛感させる、美しい文章を目にすることもなかったに違いない。

映画は時に失われた魂を招聘する。
posted by minato at 06:40| 東京 ☁| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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