2011年01月16日

『ソーシャル・ネットワーク』(デビッド・フィンチャー監督)

■企画の存在を知った時点から首を長くして待ち望んでいた作品。ようやく見ることができた。大変面白かった。実に刺激的だった。見た後、映画を一緒に見に行った友人と小一時間熱っぽく喋ることができた。

■入口はきわめて現代的だが、辿り着く先は普遍的な物語。ただし、これを本当に「普遍的」という言葉で言い表していいのかどうか。この映画が感じさせる「新しさ」の要素は、実のところ、驚くほど精巧に組み立てられた脚本のみならず、監督の人物理解や演出手腕によるところが多々あるような印象を受けた。いずれにせよ、見る者の世代、知識、身を置いている業界などによって色々な見解が成り立つ映画であるように思う。

■本作品の主人公、マーク・ザッカーバーグは「Facebook」 http://ja-jp.facebook.com/ の創始者である。自分はFacebookには知人から招待されるがままに登録し、使い方、活用法が今一つわからないまま放置している。それはどうやら、日本国内においてとてもありがちな現象らしい。要は面白さが今一つわからないのである。だいたい「友達」という観念に、はなっからアレルギーを持っている自分のような寂しい人間は、「友達」だの「仲間」だのという言葉を前面に押し出すSNSなんて気が滅入ってくるんだ。しかし、そんなことはどうでもいい。

■ネット上には次から次へと新しいツールが出てくる。それを無邪気に歓迎する一方で、新たなシステムを前にした感情的な反応が必ず出てくる。ブログ文化が隆盛を誇り始めた頃、ブロガーを批判する人たちが主に紙媒体の側から出てきたし、mixiが登場すると、その排他性を批判する人が多くいた。最近ではツイッターがその対象だ。今自分がFacebookを前に困惑しているのも同じような事態といえる。自分を含めて、ある世代以上の日本人には、ネット文化に対する偏狭というか保守的な気分があるように思う。ネットを「もう一つの現実」としてのびのびと活用する若い世代に対する偏見や怯えにも似た不安感があるのかもしれない。『ソーシャル・ネットワーク』はそうした若い世代を描いた映画だ。先に「人物理解」という書き方をしたが、マーク・ザッカーバーグはその世代ならではの若者の、一種「象徴的な天才」のような捉えられ方をしている。

■マーク・ザッカーバーグは現在まだ26歳か27歳の若者だ。youtube等にアップされている彼のインタビューを見ると、陽気であり、ジョークを飛ばす若く快活なCEOといった塩梅で好印象だ。だが映画『ソーシャル・ネットワーク』の彼はそうではない。オタクであり、友人が少なく、礼儀知らずで、不遜で、冷酷な言葉をはっきり口に出す。映画は彼の十代後半から二十代前半の間の物語であるからして、必然的に青春映画の様相を帯びてくる。ハーバード大学在学中、もしかすると剽窃かもしれぬアイデアが彼の脳裏にひらめき、寮の同室の仲間たちがその発展にあらゆる面で寄与する。始まりはとても情熱的で、牧歌的で、クリエイティブだったFacebookが、ビジネス上の大成功を収めると同時に、個々の立場というものが生まれ、目に見える結果を出す者だけが認められるという、実社会の過酷さに直面し、はじめにあった友情のようなものは滅び去る。「あれは俺のアイデアだ」だの「ああ言った、こう言った」という足の引っ張り合いみたいな諍いが始まってしまう。

■これって、業界・業態・業種は違えど、どこにでもありそうなお話である。あるいは「どこにでもありそうな話」という定型に、収め切った映画なのだと言える。ある種の定型に辿り着くというのは、良い映画の鉄則である。ただ、ことはそう単純ではない。主人公であるマーク・ザッカーバーグの内面というものは、わかるようでいてよくわからない。否、天才的な人間ゆえ容易にその心理に立ち入ることが困難な人物として描かれている。むしろ、彼に切り捨てられる相方・エドゥアルド(アンドリュー・ガーフィールド)の方がはるかに観客にとって理解しやすく、身近で、共感を得やすい「普通の人」として描かれている。映画がもし悲劇であるとするならば、それはエドゥアルドの直面する事態がわかりやすく悲劇的だからだ。

■映画館を出ると、男性客の一人が「クズ野郎だったなぁ」と友達らしき同行者に語りかけていた。「クズ野郎」とは恐らく”映画『ソーシャル・ネットワーク』におけるマーク・ザッカーバーグ”のことだろう。そういう理解も、あるいは可能なのかもしれない。だが、自分は映画で描きだされたマーク・ザッカーバーグを「クズ野郎」とは少しも思わなかった。彼はエゴイストかもしれないし、明らかに他人の気持ちを読めない。冒頭では恋人の通う大学を「三流」と言い放つ。これといった悪意もなく。これはもう、「そういうひと」なのだ。恋人に捨てられた彼は彼女の悪口をブログに書き散らす。なんという若気の至り。だがそれについてはそれなりの報いも受け、反省もする。いたってありがちな事件だ。その後の彼の軌跡に関しても、自分は正直に言って、それほど悪辣なものを感じ取れなかった。また『市民ケーン』のような大人物の孤独を描いた物語という風に受け止めることも出来なかった。いや、そのモダンなバリエーションとして製作していることは重々承知の上なのだが。

■映画は一つの企業、ひとつの組織が大きくなるために辿る、しごく当たり前のプロセスをなぞっているのであり、「勝者の論理」の何たるかを提示しているだけにすぎない、ともいえる。彼は一緒にFacebookを立ち上げたエドゥアルドを見捨て、彼の才覚を見込んで接近してきた山師のようなショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク好演!)を採用する。彼のけた外れの行動力と豊かなアイデア(「ザ・フェイスブックのザを取れ。クールだ」)こそ、映画におけるFacebookを大きくするために必要な存在だったからだ。それに、エドゥアルドはマークが望むような営業結果を出せなかったばかりか、感情の赴くままに子どもっぽい反抗的行為を遂行したりもした(うまいのは、エドゥアルドを捨てるための打算的行為をマークがしたのではないかとも捉え得る描き方をしていること。この両義性がドラマ上のいたるところにはめ込まれ、単一的な読みを無効化する)。

■これは巨万の富を目指すために親友を見捨てた、といったドラマティックな文脈で読むべき性質のものではなく、ある企業が上昇する上で避けては通れない、一つの段階に過ぎないのではないか。わかりやすい情緒に落としこむ愚を避けようとする冷静さを、脚本家かあるいはD・フィンチャーは少しは持ち合わせていたように思う。この作品が新しい、と感じさせる要素のひとつはここにある。

■ここに杉本穂高さんが訳出した、ハーバード大学教授、ローレンス・レッシング教授による作品レビューがある。映画を見た人は一つの観点としてぜひ読んでみて欲しい。

http://hotakasugi-jp.com/2011/01/14/lessig-social-network-review/#more-126

■ともあれ非常に良かった。映画の統一されたルック、知性を感じさせる音楽、スピーディな編集、それを可能にする細分化され、再構築された構成、若き俳優陣の好演。何といっても、時代に大胆に切り込んだ企画そのもの。公開中にもう一度見に行くと思う。こういう完成度の高い映画を見ると、ハリウッドって凄いんだな、と素朴に思わせられる。邦画不況なんて嘆く前に、「本当に面白い企画は必ずお金を産む」という真理について、きちんと向き合わなければ、と襟を正した。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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