2011年03月08日

『終わってる』(今泉力哉監督)

■『終わってる』(今泉力哉監督)。ずいぶん乱暴な理屈かもしれないけれど、映画作りには映画表現に対する美学と、人生観・世界観=人間学の両方が必要なんじゃないか。そのどちらかが欠けていたり、凡庸だったりすると、作品はとたんに貧しくなる。個人的にはその作家の人生哲学が見えるということがとても重要で、そこをないがしろにした作品にはあまり魅力を感じられない。好き/嫌いはその先の問題である。『たまの映画』で本編デビューした今泉力哉監督初の長編フィクション作品は、特徴的な語り口と自分だけの人間観をしっかりと打ち出した恋愛/青春ドラマとして、とても面白かった。シニカルというのともちょっと違う、人間全般に対する醒めたまなざしにも惹かれるものを感じた。僭越ながら、確かな才能を持った監督が出現した、と素直に思った。

■『終わってる』は、男女五人のどうしようもない関係を描いており、その関係性の変遷も、落とし所も、ことごとくどうしようもないのだが、「どうしようもなさ」に万事を落としこむには強い哲学を必要とする。オリジナル脚本で、特異なモチーフや現象や流行に頼らず、自分が把握し得る「実感」だけで一本の長編映画を作り上げるというのは、人が思うほど簡単なことではない。それは狭く小さな世界かもしれないが、商業映画の場で「自分の表現」をこれほど強く押し出せたというのは、やはり作家の力であるというほかないんじゃないか。

■ズバリ言うと、この監督は人間に対する捉え方、描き方が、スケベなのだ。裸がどうの、濡れ場がどうの、という問題ではまったくない。性的な存在としての人間にしか興味がない、というところがあって、そのあたり、自分にはものすごくしっくりくるのだ。だって俺もそうだもん。

■女優陣がすばらしくいい。ヒロイン的な役回りのしじみさんは最高だ。まなざしの微かな移ろい、指でカップをそっとなぞるしぐさ、自分のことを「好きだ」という男をにやにやと見つめる際の、えもいわれぬ体の動き。そのすべてに強く惹かれた。また、尻が軽いのかしたたかなのか、あるいは何も考えていないのかよくわからない女を演じる篠原友希子にはドキドキさせられた。冒頭のシークエンスががっつりと観客を捉えて離さないのは、構成の妙もさることながら、篠原友希子の醸しだすエロい雰囲気そのものである。関口崇則、前野朋哉、松浦祐也といった男優陣も、それぞれも持ち味を生かした簡潔かつ力強い演技で、他の誰とも入れ替え不可能な固有の存在感を放っている。撮影現場の実情は知る由もないが、役者にとって幸福な映画なんじゃないかと思った。

■ただ不満な部分もいくつかあって、たとえば登場人物の職業が不明瞭であることにより、「社会的動物としての人間」という側面が欠落し、ドラマの奥行きがある地点でストンと失われている。辿り着いた場所で口にされる「理」が、期待したものよりずっと平凡であるため、なんだかもやもやしてしまう。全般的にさらに観念を練り込めば、もっと深い世界が描き出せるんじゃないかと、ついお節介なことを思ってしまった。ただそれは「リアリズムは目的ではなく手段に過ぎない」という、自分自身の強固な考えに根差した偏見なのかもしれない。上映後のトークでわたなべさんも言っていたように、「伸びしろ」を感じさせる監督であることは確かである。

■ポレポレ東中野で18日までレイトショー。大味な日本映画に辟易しているひとは、ぜったい見た方がいいと思うよ。

■『終わってる』公式サイト
http://www.artport.co.jp/movie/seishun-h/owatteru/
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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