2011年03月10日

『その街のこども 劇場版』(井上剛監督)

■『その街のこども』は、昨年1月17日の放映日に見逃し、再放送で見て、号泣しながら、何かこう打ちのめされる気がしたものだった。それが劇場版となって公開され、上映終了間際になってようやく駆け付けることができた。そしてやっぱり打ちのめされた。頭がバカになるほど泣いた。泣き過ぎてくたびれ果てた。

■「これは映画である/これは映画ではない」という価値判断は徐々に失効しつつある。自分の中にも「映画だ」「映画になってない」といった基準は漠然とだが存在する。だがそれは殆ど意味をなさず、もはや定義のしようがない、という感覚も強くある。本作品もTVドラマを劇場で上映していると言ってしまえばそれまでだが、脚本、演出、演技、音楽、すべてのクオリティは、映像作品/ドラマ作品として非常に高い。「何が映画か」といった問いは本作品の前に無化される。とても小さな作品だが、ここで表現しえたものは、非常に大きいし、妙な言い方になるが、輝かしい。これは阪神淡路大震災という大きな事実を基幹に持つドラマである。被災者や被災者家族の知り合いは何人かいて、色々な話を聞いたことはあるけれど、そのようなこととは別に、ドラマとして、映像作品として、高い志を持ち、かつ普遍の域にしっかり到達している作品だと思う。しかもそれを、大上段な構えの力強さや感情論ではなく、ミニマリズムと繊細さでもって表現しえている。

■森山未來の父親は建築業者で、震災後のどさくさで法外な利益を得た人物である。そのために息子である彼も周囲から憎悪のまなざしを向けられたという過去がある。いかなる局面においても「経済」というものが人類に突きつけられる永遠の課題であり、営為であり、人の倫理を問う最大のものであることを象徴するエピソード。父親がそのような形でお金をもうけたがために、彼は野球の試合でサヨナラホームランを打ったのに、選手もコーチもしーん、としていた、という「悪夢」のような経験をしてしまう。それが自分自身の罪ではないだけに、彼の傷は痛ましい。そして、サヨナラホームランに対して沈黙で応じた周囲の子どもたち、大人たちもまた、ひどく痛ましい。それは映像ではなく、森山未來の台詞だけで見事に表現されてしまう。

■災害そのものの悲惨さを描くのではなく、災害が人々の「その後」にもたらしたものを見据えるドラマ作りが徹底している。このドラマにおける生存者は、本来担わなくてもよいはずの罪悪感を、心の奥深くで抱きながら生きている。破壊されたのは建物や道路だけでなく、共同体のありようそのものであったことが、二人の若者の会話からどんどん透けて見えてくる。震災の悲劇の一側面であるこうした現象に、作り手たちは真摯に、徹底的に、ある意味、容赦なく切りこんでいく。とてつもない「重さ」に、脚本家も、演出家も、俳優も、すべてのスタッフも全力で向き合ったことが伝わって来る。自分がひどく打たれたのはまずそこだった。

■しかも、これほど大きな出来事を、コンパニオンのねーちゃんと、建築士の若いにーちゃんの一夜の道行きに集約するということ。彼らのいかにも今風の佇まい、軽い言葉、軽い行動に、作り手は絶妙の距離感を保ちながらアプローチする。フラットなカメラワークと即興と見紛うような台詞のやり取りがそれを倍加する。やがてサトエリは鎮魂の場へ向かい、森山未來は「今年はやめとく」という。この個々の選択。彼女は長年の問題を解決し、素直に鎮魂の場へ向かうことができる。だが彼にはちょっとまだできない。その時刻が到来し、道を歩く彼がふっと腕時計に目をやる。その姿をロングでさりげなく捉える、あの品性はどうだろう。

■TVで見た時もそうだったが、あんなに美しく感動的なハグはこれまで見たことがない。一生忘れられないハグだ。本当のぬくもりがそこにあるんだろうと思う。不条理に見舞われ、複雑な思いを抱えながら現実社会を生きていかねばならない人間たちの、一瞬のハグ。(ここは握手ではなく、ハグだ)と瞬時に判断するのが、森山未來ではなくサトエリであることの意味合い。本当に価値のある、本当に尊い、本当のぬくもりがそこにある。あのぬくもりのためにこのドラマがあると強く思う。凄い脚本だと思う。宝石のような映画だと思う。本作に関わったすべてのスタッフ・キャスト・協力者を尊敬します。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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