2011年07月13日

悲しみと日々

■震災以降、あまりにも多くのことが起きてしまった。ひとつひとつの出来ごとに、ただ翻弄され、ただ虚ろになって過ごしてきた。3.11以前の生活には戻れない、と思ったけれど、3.11以降の毎日は、個人的な精神生活の中に「以前/以降」といった区分けすら無効化する緊張状態を強いてきた。仕事の重なったことが、そこに焦燥感と異様な昂揚感を加味させた。日々に現実感がなかった。今もない。根底にあるのはひどい悲しみだ。たとえば一つ喫緊の課題を解決したとする。ほっと一息つくなり、身を潜めていた悲しみがじわじわ立ち昇ってくる。ずっとここにいたよ、と言わんばかりに。わかってる、とその都度思う。意外なことにそこへ感傷の忍びよる隙はない。悲しみとは厳粛なまでに重いものである。腹に沈んだ鉛の塊みたいなものだ。

■悲しみと歩む日々は、実りの乏しい現在と悲観的な未来を見せつける。不眠を誘う。名状しがたい苛立ちと憤りが心の隅にいつも燻っている。攻撃的になる。刹那的になる。突然すべてを投げ出してどこかへ逃げたくなる。それをしないのは単に臆病だからだ。ありがたいことに、この世には時間というものがある。時間は次々と現在を過去にしていく。現在は永続的なものではない。だから悲しみと日々もやがては過去になる。そう信じて時間に縋る。また、仕事というものがある。ストレスをため込むだけの仕事もあるが、ああちくしょう、こいつが映画になったら最高に面白いぞ、と思える仕事もある。どれもこれも金にはならないが。

■なんにせよ、もうつまらないことに時間を費やしたくない、という気持ちが高まっている。人生とは有限であることを突きつけられ続けた数ヵ月だった。人は死ぬときに何も持っていけない。現在を精いっぱい生き抜くことにしか人生の価値はない。自分の場合、生き抜くことを動機づけるものはさしあたり仕事しかない。他には何もない。脚本の仕事をいつまでできるのかわからないが、できることをできるうちにやるしかない。無理に前向きな気持ちになろうとしているのではなく、現実的にそうとしか言えないのだ。

■やるべきことをやり、やりたいことをやってしまったら、あとは野となれ山となれ、だ。
posted by minato at 21:49| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。