2011年12月31日

2011年の終わりに

大きな出来事ばかりが立て続けに起きた一年だった。それらをひとつひとつ振り返る精神的な余裕も、時間的な余裕も今はない。元旦までに脚本を一本提出せねばならないし、年賀状も書いていない。色々あった一年だけれど、2011年の終わりに、仕事のこと、表現のことを少し書いておこうと思う。

ことしは例年以上に多くの仕事をこなした。けれど、一本も映像化されていない。目に見える形での結果は残せなかった。それでもすばらしい出会いがいくつもあった。尊敬すべき監督やプロデューサーとの出会いが、脚本に対する考え方、「映画」の捉え方について、視野を大きく広げてくれた。才能豊かな映画人たちとのご縁が自分にもたらしたのは、これまでのやり方は通用しない、という危機感だった。いや、そもそもこれまで自分の表現が大向こうに通用したためしなどありはしないのだ。

危機感の根っこには、自分の立っている場所で求められる表現が、これまでとは異なってきたということもある。日本映画界の状況とも少し関わっている。震災によって揺らぎの生じた死生観、師匠の死によって豁然と響き始めた「個として立て」という内なる声、「未来を自分の手で創れ」という誰かの声が切迫感を煽り立てている面も無視できない。

それに呼応する形で、今後、物語を紡ぐ上で必要なことは何だろう、ということをずっと考えてきた。思念を机上の空論として弄繰り回していると思われては困る。常に仕事の中で、実践の中で考えてきた。ことしの下半期になって、何となく掴めてきた。それは大雑把に言うと「大きな物語は死なない」ということである。普遍が指し示すものをこれまで以上に凝視することである。表現としての「強さ」を志向することである。映画は終わるかもしれない。でも劇は決して滅びない。その深い確信が、今の自分にはもっとも必要なことだった。

こうした個人的な探求は、観客に対してより強い表現を提示したいという欲求と結びついている。俗な言い方をすれば「観客」というものをより明確に意識し始めたということである。今後、そのための努力は惜しまないつもりだ。まあ結果がどうなるかは神のみぞ知る、ですが。

そういうことです。これが波乱に満ちた2011年の締めくくりの言葉なんだろうかと我ながら呆れるが、美は乱調にあり、表現への気持ちが純化していることを今は肯定的に捉えたい。個人的に考えていることが、大勢の人間が見る映画の根幹にストレートに反映されると信じていたい。

ことしは誰にとっても大変な一年だった。その重さをしっかり引き受けつつ、来年は良い年にしていきましょう。

ことしも一年間、ありがとうございました。
posted by minato at 03:30| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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