2012年07月10日

『ギリギリの女たち』(小林政広監督)

『ギリギリの女たち』(小林政広監督)

○2011年3月11日東日本大震災直後、比較的被害の少ない東京在住とはいえ、ネットやTVに映し出される大津波や地震の映像、絶え間なく都心を襲う余震、デマ、さらには福島第一原発の事故に心底怯えた。不安と恐怖に満ちた暗い都下で、粛々と執筆や打ち合わせを続けていたが、それどころではない、というのが正直な気持ちだった。

○戦争と震災は人為的であるかそうでないかという意味においてまったく異なるが、人の生命や日常を巨大な破壊に晒す点で共通する。アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』では、戦火のサラエヴォで貧乏芝居が上演されていた。スーザン・ソンタグもサラエヴォで『ゴドーを待ちながら』を上演したという(その記録が『サラエヴォでゴドーを待ちながら』という文章にまとめられているらしい)。3.11に対して映画は何ができるか、という問いは、自分には意味も意義もよくわからないが、呆然自失とする日々のなかで手に取ったのはギリシャ悲劇であり旧約聖書であった。古き人々の知恵に何かヒントがありそうな気がしていた。それは映画作りのヒントを探してのことではなく、生きていく上で必要なものを探してのことだった。

○ところで物語とは「劇」という関係性の力学、その磁場がもたらした結果のものである。物語の前に劇が存立する。私淑する小林政広監督の最新作『ギリギリの女たち』は、被災地である宮城県気仙沼市唐桑町を舞台にして、震災そのものを劇の基盤に据えている。大津波の傷痕が生々しい土地で撮影された結果、物語以前の「劇」が、きわめて原初的な形で剥き出しにされた映画になっている。『愛の予感』が映画の構造というものを、大胆かつ強靭に曝け出した映画であったように、『ギリギリの女たち』は、大げさに言うならば劇というものがいかにして(あるいは、なぜ)人類の歴史に存立するのかを、図らずも描いてしまった映画になっている。それは、主体となる三姉妹の人間ドラマではなく、ドラマの行間に滲みでる異様な雰囲気であったり、芝居であったり、ショットのあり方に鮮烈に打ち出されていく。

○冒頭近く、渡辺真起子演じる三姉妹の長女が画面中央奥に居座り、耳障り寸前の声で咆哮し、絶叫し、呪祖のように唸り声をあげ、それから激しい頭痛に蹲る。まがまがしい姉の姿に、二人の妹はうんざりし、受け流し、反撥する。やがて長姉は死んだように眠りに落ちる。まるで地震によって割けた大地に半身を埋めるかのように、あるいは大地と一体化したかのように、昏々と眠り続ける。彼女の眠りに一切の説明はない。ただひたすらに、過剰なまでに眠るのである。その動物的な、あるいは巫女のようなふるまいは、たとえば震災以前であれば精神病院でなければ成り立たないたぐいのものである。だがここではその”不自然”なふるまいがしっくりと作品世界に溶け込んでいく。観客もまた無意識の領域で彼女のふるまいを理解するのだ。なぜなら彼女は3.11を経験した私たちの無意識とつながった存在だから。そして荒ぶる神を鎮めるための演者として彼女は選ばれ、差し出される存在であるから。

○彼女の職業は舞踏家である。2500年前に隆盛を誇ったギリシャ悲劇は、神々へ奉納するために演じられたという。劇の前身は歌舞であり、踊りであった。それら肉体表現が発展し、叙事詩や神話を援用する形で「劇」という形式になったのだ。彼女が舞踏家であるという設定自体きわめて示唆的だが、作品終盤においてその設定が豁然と本領発揮する。ある大自然のロングショット(そのショットの背景、ロングショットにせねばならない理由が実に深い)で繰り広げられる、三姉妹による奇矯な踊りと涙と独白。すべてが容赦なく異化されていくその迫力ある光景は「劇の起源」とは何かを力強く捉え、訴え、そして「祈り」になる。このショットの感動はちょっと言葉にならない。何のために映画があるのか、物語があるのか、劇があるのか、そういったことをショット自体の力で明確に証明している。落涙しました。他にも細部において本作が練り込んでいく「起源」へのまなざしは色々とあるが、それは実際に作品を見て確かめてほしい。

○長女・渡辺真起子のエゴイスティックなキャラクターは、スクリーンを円形劇場にしても十分耐え得る爆発力を誇っている。感嘆しきりだった。次女・中村優子の冷淡に見えてその実、脆い内面を抱えた繊細な芝居。“野良猫”と自らを位置付けることによって何とかアイデンティティを保つ豹のような藤真美穂のひたむきさ。全編、三姉妹を演じた女優たちの演技に釘付けとなった。ジョーゼフ・キャンベルによれば「女性は生命力そのもの」(『神話の力』より)なのだそうだ。男性がせっせと築き上げた社会が根底から崩落した時、すぐさま女性たちのもつ生命力に希望を託してしまうのは、男としていかにも情けないが、こういう映画を見ると、それは疑いようのない現実だという気がしてくる。これは大地を踏みしめている女たちを活写した映画である。つまり今、日本に必要とされている映画ということである。

http://girigiri-women.com/
『ギリギリの女たち』公式サイト
7月28日〜公開
posted by minato at 16:52| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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