2015年07月28日

『封印された旋律〜ガス室に消えた音楽家たち』

ヒストリーチャンネルで放映していた『封印された旋律〜ガス室に消えた音楽家たち』。傑作だった。2001年に制作された2時間のドキュメンタリー。詳細は下記。

https://www.historychannel.co.jp/detail.php?p_id=00223

ユネスコの平和芸術家に日本人として初めて任命されたヴァイオリニスト、二村英仁氏は、チェコのテレジンにある収容所跡へ向かう。そこでアウシュビッツで命を落としたユダヤ人作曲家、ギデオン・クラインを知った氏は、彼が遺した楽譜を演奏会で演奏することを決意する。

ギデオン・クラインの短い軌跡を辿る旅が始まるが、それは必然的にホロコーストに向き合う旅、その時代の証言者たちと出会う旅となる。少しずつ見えて来るギデオンの素顔。見つかる新たな楽譜。絶えず視界を横切る膨大な、あまりにも膨大な数の犠牲者。ついに氏は生存者が暮らすイスラエルへ……。

「芸術とホロコースト」という大テーマ、その諸相が多角的に繊細に掘り下げられていく。若き日本人ヴァイオリニストが案内役となったことで、かえってホロコーストという事態が肌理に迫るものとして感じられた。同時に音楽が時間を超え、国境を越えてゆく凄いものなんだと改めて教えられた。

映画は死者を蘇らせる装置で、戯曲は古人の霊廟だ。楽譜もまた音の形で永遠なる芸術を蘇らせてきたが、時にはホロコーストによって消された人々の声を、言葉や視覚ではなく、言葉や視覚ではなく、息遣いとして、「声」として蘇らせ得るのだ。だが楽譜を手にした現在の演奏家は「声」を憑代となって表現せねばならない。

二村氏が蘇らせるギデオンの曲は、ひどく息苦しく神経質で、ネガティブな響き。1940年台初頭のチェコのユダヤ人の心理的な圧迫感、恐怖、絶望が「音楽」の形で現在に溢れだす。その息を飲む黒々とした感触。すぐに収容所へ連行されたためか、曲は二楽章の途中までしか書かれていない。

二村氏は葛藤する。演奏会の際に、中途半端に終わってしまう楽譜をそのまま演奏するのか、いくばくかのアレンジを施して体裁を整えるのか。最後に導き出される答えは詳らかにしないが、この作品は、氏の選択を「問いかけ」という言葉で表現した。……打ちのめされた。

ディレクターの古賀美岐さんって凄い方だなぁ、と思って検索したら、同姓同名のデイレクターの方が08年にヒマラヤで亡くなっていたとの記事を見つけた。ご本人かどうかはわからないけれど。ともかくこれは素晴らしいドキュメンタリーだった。
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2015年06月22日

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督)

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督)。いやぁ面白かったわ……。

例によって、中学生しかいない荒野をさまよう汚れた聖人のお話。シャーリーズ・セロンが主役で、マックスが添え物になってるところが、物足りないと言えば物足りないけれど、「マックス」というキャラクターを追求することでなく、「マッドマックス」という世界観を構築することが本シリーズの神髄なのだと思い直し納得した。シャーリーズ・セロンの、顔だけですべてを物語る芝居が良すぎた。もう惚れ惚れしました。物語の折り返し地点でのマックスたちの判断、あそこで涙腺が緩んだ。『インターステラー』でも強く打ち出されていた「旅の本質」がキッチリ押さえられていたからだと思う。

小学生の時に一作目、二作目をTVで見て、映画の激烈さ、怖さ危なさ、そしてカッコよさを、ジョージ・ミラー先生から教えられた。おらが不惑を超えた今もこんなに面白い映画を作り続けていることが、何というか……マジカル。
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2015年06月19日

『遺言』(木部公亮監督)/『ニート・オブ・ザ・デッド』(南木顕生監督)

『遺言』(木部公亮監督)と『ニート・オブ・ザ・デッド』(南木顕生監督)の二本立て。ゾンビものの良さが全然わからないのだが、南木さんをおくらなきゃなぁ、なんて想いで向かったら、ことのほか面白い目に遭った感じだった。
『遺言』は映像が濃密かつパワフルで、クセの強い短篇だった。ロケーションも変にスケール感があって見ごたえあるし、タイトルの由来が最後にわかる展開もいい。終末感ってこのくらいの腕力で描かないと説得力も面白味ないよなぁと唸った。かなり大きなチカラをもつ監督なんじゃないかと思う。
『ニート・オブ・ザ・デッド』は、以前シナリオ会館での追悼上映でも見ていたけれど、やっぱりユーロのスクリーンで見ると別物だった。南木さん自身、「これは『人形の家』なんだ」と仰っていたとかで、脚本は古典的かつ堅実なプロフェッショナルの仕事。いまどきの「あるある」風に引き算でシーンを構成するタイプではなく、いわば教科書的で、そこは好き嫌いがわかれるところかもしれない。でもね、最低限こういった段階を踏んで話を進めないと「プロ」とは呼ばないんだよ!
……という南木さんの声が聞こえてきそうだった。
上映後のトークで、ゲストの佐藤佐吉さんが「南木さんと10年ぶりに再会した場に港さんがいて」みたいな話をされてて、うおぅ?となってたら、ああああれだ、2010年に阿佐ヶ谷ロフトで行われた映画一揆さんのイベントだった。そうそう、あの時南木さんが観覧に来てて、休憩時間になぜか二人して『殺し屋1』の脚本は凄い!という話で盛り上がったんだった。あの映画のことは色々な人が色々に語るけど、あの構造を「発明」した脚本が凄いんだって話しが通じた人って、よく考えたら南木さんが初めてだった。そこへ佐吉さんがいらしたのでお声掛けしたら、お二人が旧交を温めてらしたんだった。トークを聞かなければなかなか思い出せないことだったように思う。
あの時のイベントで知り合った方も多かったし、あれが縁で仕事になって、そんで大喧嘩して別れる羽目になった方もいたな……(遠い目 
そんなこんなで『遺言』『ニート・オブ・ザ・デッド』、26日(金)まで渋谷ユーロでレイトショーです。ぜひ。
https://www.facebook.com/neetyuigon
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2015年06月17日

『THE COCKPIT』(三宅唱監督)

『THE COCKPIT』(三宅唱監督)。小品と呼ぶべき作品だと思うが、とても良かった。ミンガス感あふれる兄ちゃんをあんなに長々見つめる機会ってそうないだろうなぁと眺めるうちに、ものつくりonものつくりの映画なんだってわかって、一気に親近感わいた。

兄ちゃんらが小部屋に籠って延々とものづくりに没頭するこの空間は、特別なものでもなんでもなく、ありふれたものだ。おれが通っていた工業高校の機械工作の教室も、放課後の音楽教室も、やってることはまったく関連も何もないが、こんなもんだった。いわずもがな、映像編集・録音スタジオ(そしてスタジオがわりの技師の部屋)もこんな感じだ。要するに少しでも「ものをつくる」という行為に関わる現場には、必ず醸し出される空気感というものがあり、本作はそれについての映画ということだ。

にもかかわらず、この場を、空間を、ひと様にお金を払わせる「映画」として特権化するのは、魅力ある被写体を揃えることは当然として、それを切り取る画角であり編集のタイミングであり、ことによったら、日本映画がなぜか苦手とする「人物の頭をきちんと撮る」ことであったりするのだった。そしてそれを「あー、三宅監督ってやっぱ才能あるんだな…」とため息がこぼれるレベルで達成し得ていた。

トラックを作る作業には、ひとつの創作物にいかに多くのレイヤーがあるかを素材(既成の楽曲、リズム、カモメのSE、他…)を重ねることで単純明快に表現できる優れた特性があって、これは文字や単なる視覚表現ではあんがい伝わりにくいものだ。やっぱり音だから、いや、ヒップホップだから伝わるのだ。何より、創作のど真ん中にあるのは、個人の「快楽原則」なんだってことが、ミンガス兄ちゃんの表情や振る舞いひとつで瞬時に伝わってきた、すなわち、映画だった。

出来上がった楽曲が面白いのかどうかおれにはさっぱりわからない。ただ、劇場が明るくなったとき、近くの客席の兄ちゃんが「時期尚早、時期尚早」(見た人ならわかる)と呟いて、周囲にゆるい笑いが広がったのを見て、なんだかにやついて帰宅した一夜であったことよ。
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2012年07月25日

『苦役列車』(山下敦弘監督)

最高だった。何度も泣いた。泣く理由なんてお前らにわかんなくていいよ、と思うけど、「どうしようもない私」を抱えて地の底を這うような暮らしを送る君ならきっとわかってくれると思う。

自分の20代前半のきつい時期が、そのまま描かれていた。だれがどう言おうが関係ない、これが青春映画というものだ。主人公・貫多の疎外感。彼は「普通」ということがわからない。「世間一般」とか「社会通念」というものが、どうしても、どうあがいてもわからない。さびしさを剥き出しにして他者と接することしかできない。だから少しでも優しくされると、甘えてしまう。心の底から「ありがとう」って言えてしまう。「普通」と思える青春をほんの束の間味あわせてくれたことに対して、ずっとずっとその嬉しさを後生大事に抱き続けてしまう。たとえそれが他人には痛ましく映ったとしても。

友達や女の子と海にいくなんて、ボウリングをするなんて、彼のような人間にはありえないことだったんだよ。そしてやっぱりそんな「普通」は長続きしないんだよ。だから書くんだよ。貧しい部屋で、上半身裸で、エンピツを使ってカリカリと机に向かう行為が、どれほど彼の救いになっていることか。どれほど生きていることの慰めになってくれていることか。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうって思いながら、でも書くという行為に生の実存を感じて、恍惚として、生きている、と思いながら書く背中。監督はそこをきっちり美しく舐めるように撮っていた。すばらしいと思った。

西村賢太原作、いまおかしんじ脚本という、それ以外ありえないような組み合わせに、山下敦弘監督で三位一体が完成している映画『苦役列車』。森山未来が超絶すばらしすぎる。前田敦子が叫びたくなるほど可愛らしすぎる。高良健吾も「普通」の好青年役を好演しすぎる。そして画面に映るそれ以外のキャストの方々が、私的な映画史に響いていちいちツボった。

いまおかさんが監督をした『イサク』によって、なんとかこの業界に再度足を踏み入れることのできた自分は、すなわち『イサク』が二十代のあの鬱屈から解放されるきっかけとなった自分のような者には、決して冷静に見ることのできない映画だった。涙なしに見られなかった。映画館を出てすぐに定食屋で大盛りのめしをかっ食らった。
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2012年07月10日

『ギリギリの女たち』(小林政広監督)

『ギリギリの女たち』(小林政広監督)

○2011年3月11日東日本大震災直後、比較的被害の少ない東京在住とはいえ、ネットやTVに映し出される大津波や地震の映像、絶え間なく都心を襲う余震、デマ、さらには福島第一原発の事故に心底怯えた。不安と恐怖に満ちた暗い都下で、粛々と執筆や打ち合わせを続けていたが、それどころではない、というのが正直な気持ちだった。

○戦争と震災は人為的であるかそうでないかという意味においてまったく異なるが、人の生命や日常を巨大な破壊に晒す点で共通する。アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』では、戦火のサラエヴォで貧乏芝居が上演されていた。スーザン・ソンタグもサラエヴォで『ゴドーを待ちながら』を上演したという(その記録が『サラエヴォでゴドーを待ちながら』という文章にまとめられているらしい)。3.11に対して映画は何ができるか、という問いは、自分には意味も意義もよくわからないが、呆然自失とする日々のなかで手に取ったのはギリシャ悲劇であり旧約聖書であった。古き人々の知恵に何かヒントがありそうな気がしていた。それは映画作りのヒントを探してのことではなく、生きていく上で必要なものを探してのことだった。

○ところで物語とは「劇」という関係性の力学、その磁場がもたらした結果のものである。物語の前に劇が存立する。私淑する小林政広監督の最新作『ギリギリの女たち』は、被災地である宮城県気仙沼市唐桑町を舞台にして、震災そのものを劇の基盤に据えている。大津波の傷痕が生々しい土地で撮影された結果、物語以前の「劇」が、きわめて原初的な形で剥き出しにされた映画になっている。『愛の予感』が映画の構造というものを、大胆かつ強靭に曝け出した映画であったように、『ギリギリの女たち』は、大げさに言うならば劇というものがいかにして(あるいは、なぜ)人類の歴史に存立するのかを、図らずも描いてしまった映画になっている。それは、主体となる三姉妹の人間ドラマではなく、ドラマの行間に滲みでる異様な雰囲気であったり、芝居であったり、ショットのあり方に鮮烈に打ち出されていく。

○冒頭近く、渡辺真起子演じる三姉妹の長女が画面中央奥に居座り、耳障り寸前の声で咆哮し、絶叫し、呪祖のように唸り声をあげ、それから激しい頭痛に蹲る。まがまがしい姉の姿に、二人の妹はうんざりし、受け流し、反撥する。やがて長姉は死んだように眠りに落ちる。まるで地震によって割けた大地に半身を埋めるかのように、あるいは大地と一体化したかのように、昏々と眠り続ける。彼女の眠りに一切の説明はない。ただひたすらに、過剰なまでに眠るのである。その動物的な、あるいは巫女のようなふるまいは、たとえば震災以前であれば精神病院でなければ成り立たないたぐいのものである。だがここではその”不自然”なふるまいがしっくりと作品世界に溶け込んでいく。観客もまた無意識の領域で彼女のふるまいを理解するのだ。なぜなら彼女は3.11を経験した私たちの無意識とつながった存在だから。そして荒ぶる神を鎮めるための演者として彼女は選ばれ、差し出される存在であるから。

○彼女の職業は舞踏家である。2500年前に隆盛を誇ったギリシャ悲劇は、神々へ奉納するために演じられたという。劇の前身は歌舞であり、踊りであった。それら肉体表現が発展し、叙事詩や神話を援用する形で「劇」という形式になったのだ。彼女が舞踏家であるという設定自体きわめて示唆的だが、作品終盤においてその設定が豁然と本領発揮する。ある大自然のロングショット(そのショットの背景、ロングショットにせねばならない理由が実に深い)で繰り広げられる、三姉妹による奇矯な踊りと涙と独白。すべてが容赦なく異化されていくその迫力ある光景は「劇の起源」とは何かを力強く捉え、訴え、そして「祈り」になる。このショットの感動はちょっと言葉にならない。何のために映画があるのか、物語があるのか、劇があるのか、そういったことをショット自体の力で明確に証明している。落涙しました。他にも細部において本作が練り込んでいく「起源」へのまなざしは色々とあるが、それは実際に作品を見て確かめてほしい。

○長女・渡辺真起子のエゴイスティックなキャラクターは、スクリーンを円形劇場にしても十分耐え得る爆発力を誇っている。感嘆しきりだった。次女・中村優子の冷淡に見えてその実、脆い内面を抱えた繊細な芝居。“野良猫”と自らを位置付けることによって何とかアイデンティティを保つ豹のような藤真美穂のひたむきさ。全編、三姉妹を演じた女優たちの演技に釘付けとなった。ジョーゼフ・キャンベルによれば「女性は生命力そのもの」(『神話の力』より)なのだそうだ。男性がせっせと築き上げた社会が根底から崩落した時、すぐさま女性たちのもつ生命力に希望を託してしまうのは、男としていかにも情けないが、こういう映画を見ると、それは疑いようのない現実だという気がしてくる。これは大地を踏みしめている女たちを活写した映画である。つまり今、日本に必要とされている映画ということである。

http://girigiri-women.com/
『ギリギリの女たち』公式サイト
7月28日〜公開
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2012年02月07日

『KOTOKO』(塚本晋也監督)

■『KOTOKO』(塚本晋也監督)を試写で拝見。Cocco×塚本晋也とあれば多少痛い目に遭うだろうなあ、と覚悟はしていたが、痛撃された。自傷、暴力、流血といった「痛い」描写はふんだんに出てくる。話の展開も、救いがないといえばない。でもそうした表層の奥底に、ずっと変わずに湛えられた何かがあって、ひたすらそこを見つめさせられていたような気がする。物語として何かが発展するというより、ひとつの宇宙を覗きこまされた感じ。臓器や心臓の鼓動が聞こえる血まみれの母胎に閉じ込められた感じ……。そう導くのは言うまでもなくCoccoである。

■Coccoは強く深いまなざし、肉体のラインそのもの、そして歌唱とダンス、モノローグによって、この世に「演技」など最初っからなかったかのようにそこへ存在する。ただそこにいるだけで、人間としての迫力を感じさせるのである。小手先の芝居など一切やらない。そんなものは彼女において不要なのだ。その強さ、美しさ、逞しさを見ていると、次第に彼女の前にひれ伏したくなってしまう。それ以前に塚本晋也がひれ伏し、魅入られ、それでもなんとか格闘しようとしている。そこに映し出されるのは育児やトラウマに苦悩し、血まみれで七転八倒している「弱い女」にすぎないのに。とはいえ彼女は明らかに一線を越えてしまっている。それを他人ごとではなく自分のこととして描くという姿勢に感動があった。べつに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を持ち出す必要はないけれど、あの映画のビョークに対するトリアーのアプローチとはまったく逆だと思った。

■自分はこのヒロインが目の前に現われたら、二秒で恋に落ちる自信がある。ちょうど劇中の田中(塚本晋也)がそうだったように。田中の彼女への接し方、寄り添い方は、自分にはとてもよくわかる。だから決してこちらから彼女に近寄ってはいけないとも思った。でも迫られたら絶対逃げられないな……などといらぬ妄想をしてしまったよ。あえて言い添えておくが、『KOTOKO』のCoccoみたいな女がいわゆるファム・ファタールであり、悪女なのだよ。いやほんとに。

■この映画は「育児」が大きなモチーフとなっているが、そこだけに主題を限定しているわけではない、という前提で話を進める。あくまで個人的な見解だが、この映画に描かれる女性の精神状態は「季節」という気がする。多くの女性に少なからず潜在しているものではないかと思う。たいていの女性はうまく折り合いをつけて、この季節をやり過ごしていく。そのためには他者が必要となる。自己の相対化が図られることによって、希望の兆しが見え始める。他者を巻き込み、地獄の季節に心身を浸しながらも、最終的には再生を図っていく。それが普遍的なありようなんじゃないかと思うし、こういった表現がいいかどうかはわからないけれども、女性映画とはその季節を切り取る作業であると自分は考えている。

■『KOTOKO』も当初、そういった普遍を描こうとしているのだと思っていた。ところがそこに留まることはなかった。「映画のお約束としてこういうことはしてはいけない」といった前提を突き崩す描写がいくつもあるし、「お客さんのことを考えると、そういう展開にならないほうがいい」という展開もある。「商業映画」の「暗黙の了解」を、『KOTOKO』のヒロインはやすやすと破壊する。それはもしかすると、集団生活を送る男たちが何となく醸し出している「空気」のようなものを壊しているのかもしれない。だから「感情移入」を拒むような展開がいくつかある。でもお約束としての「感情移入」を超えた領域に足を踏み入れることができるのも、映画ならではの、あるいは、女性映画ならではの豊かさなのだ。男性にも女性にも、誰にでも勧めたいという映画ではないけれど、個人的には学ぶところがたくさんあったし、こういう世界が好きなんだと改めて思った。ラスト2カットがとても秀逸でした。

■現在二稿まで進めているシナリオに、重複するモチーフ、描写、イメージがあり、(まいったなぁ)と狼狽しております……。

http://www.kotoko-movie.com/

(映画『KOTOKO』公式サイト)

4.7よりロードショー
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2011年12月01日

『大津波のあとに』(森元修一監督)『槌音』(大久保愉伊監督)『ふたつのウーテル』(田崎恵美監督)『わたしたちがうたうとき』(木村有理子監督)

■本日発売の月刊シナリオ1月号、桂千穂さんの「映画館へ行こう」のコーナーで、座談会の末席を汚しております。『恋の罪』や『一命』などについて無責任に喋っておりますので、よろしければどうぞ。

■渋谷のアップリンクで明日まで上映している『大津波のあとに』(森元修一監督)と『槌音』(大久保愉伊監督)を見た。とてもよかった。現在、「3.11」という言葉は、どちらかといえば原発問題を意味する場合が多い気がするけれど、この二作品は徹頭徹尾大津波による被災に焦点を絞っている。

■特に『大津波のあとに』は良かった。大津波という圧倒的な現実、大いなる事実を前にしたときの、撮影者の畏怖や被写体となる現地の方々への敬意が、意図的でなく無意識のうちににじみ出ていた。「ドキュメンタリーとは」「ジャーナリズムとは」といった議論をなきものとして制作、否、「記録」されている。作為や自意識の滅却が自然と行われている、と言い換えてもいい。作為を作為と見せない操作が行われているとしても、その滅却のありかたに深く頷かされた。

■森元監督はアフタートークで「セルフドキュメンタリーにはしたくなかった」と仰っていたが、自己言及する余裕などない状況だっただろうし、「自分」を捨てることが、外部から被災地へ降り立った者の最低限の礼儀であり、節度なのだと思う。大きな現実を前にして露呈される「自己愛」ほど見苦しいものはない。ワンカット、監督自身を鏡越しに捉えるショットが挿入されているが、個人的にはあってもなくても作品総体の印象は変わらないと思った。今後もどこかで上映の機会はあるような気がするので、その際はぜひご覧になってみて下さい。

http://fartheron.soragoto.net/
『大津波のあとに』『槌音』公式サイト


■昨日は渋谷でやっている「NO NAME FILMS」をワケあって見に行き、若い監督たちによる多くの短編を見た。中でも『ふたつのウーテル』(田崎恵美監督)と『わたしたちがうたうとき』(木村有理子監督)はとても良かった。

■テクノロジーの進歩によって誰でも映画が撮れる時代となり、ある程度の「見栄えがする画面」を構築することが可能になった。前にも書いた気がするけど、それはとても残酷な時代になったということだ。結局のところ作家が人間をどう捉え、どう描くかという、非常にアナクロな(だが根本的な)”才能”について、誤魔化しがきかなくなっかたからだ。上記の二人の監督はその意味での根本的な才能が光っていた。その「光」が、長じて「映画」の技術に貢献する。逆ではないんだということを再確認させられる作品だった。
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2011年10月16日

『トーキョードリフター』(松江哲明監督)『アントキノイノチ』(瀬々敬久監督)

最近、試写で見た作品について少し。


『トーキョードリフター』(松江哲明監督)

いわゆる「3.11」以降の映画、というものが世の中にはあるという。でもおれは見たことがない。いや見る機会はあったが、本音をいえば「見たくない」のだ。震災の翌日から、仕事の打ち合わせなどで何度も新宿に出た。歩きながら街の様子を脳裏に刻みつけていった。すでに放射性物質の話題でもちきりだったから、外出するだけで気が重かった。そして、津波に遭ったわけでもなく、避難区域でもない土地に暮らす人間がそんなことで気が重くなってしまうことで、とても後ろめたい思いをした。あの途方に暮れた感じ。非常事態そのもののような街の空気。恐怖と不安と悲しみばかりを突きつけて来るTVの映像。思考をパンクさせるネットのニュース。一ヶ月経つと、師匠のことがあり、仕事も重なって、肉体的/精神的にとことん追い詰められた。今はだいぶ落ち着いてはいるけれど、あの頃のことを振り返りたいとは少しも思わないし、悪いことに、すべては現在進行中なのだ。

『トーキョードリフター』は五月のある一夜に撮られた作品で、『ライブテープ』同様、シンガーの前野健太が、街角に立ちギター一本で弾き語りする様子を捉えた作品だ。音響設計の見事さは素人でもわかる。意図的に「ビデオテープ」を想起させる画質やほとんど懐かしい感じの字体(裏ビデオってあんな感じの字体が多かった)など、狙ってきた導入。やがて主人公は単車に乗って到着する。あとはあちこちの夜の町で歌う前野健太が淡々と映し出されていく。いつしか雨が降り始め、それは朝まで続くだろう……。正直、自分はこの方の歌があまり好みではないのだが、皮肉でも何でもなく、単車を走らせながらAKB48の「ヘビーローテーション」のフレーズを自然に口ずさむ場面がいちばんよかった。あの頃の街の気分、街の空気、そんなものを、あの曲を「口ずさむ」という仕草でぜんぶ背負ってしまっていた。そしてそれこそが本作の狙いなのだと思った。

『ライブテープ』はドキュメンタリーが生成される場と時間と方法論をあけすけに開示することによって、誰にでも楽しめる作品になっていた。今回はそうした意匠をあえて捨てている。大きな現実を前に、そうしたメタな演出は不誠実にあたるからだ。では本作の生身の表現は結果的に誰に何をもたらしたのか。自分はこの作品を見ながら(ああ、これは『ライブテープ』殺しだな)と思った。それは自己の方法論に対する一種の否定だ。断絶かもしれない。『ライブテープ』が余すところなく捉えていた「幸福なお正月」はもう二度と来ないと明言したようなものである。

こうした見方はいわば松江哲明という監督の作品歴、その文脈に沿ったものだ。それが正しいことなのかどうかはわからない。ミュージシャンのファンは自分とはまるで違った目で見るだろうし、突き放した見方をすればこれは端的に「記録映像」である。それでいいとも言えるし、それでいいの? との疑義も湧く。自分は複雑な感情が渦巻くまま試写室を出た。

自分がうまく感想を言えないことに対する言い訳ではないけれど、この作品に関する明快な批評、明快な絵解きはいらないんじゃないかという気はした。雨に濡れる夜の渋谷にごろんと転がった映像――即物的なまでにそうした感触を残す作品である。


12月10日よりユーロスペース他にて公開
http://tokyo-drifter.com/
公式サイト



『アントキノイノチ』(瀬々敬久監督)

遺品整理の仕事を始めた吃音症の青年(岡田将生)と、心に傷を負った同僚の女(榮倉奈々)が、少しずつ心を通わせていく姿を丹念に描いたヒューマンドラマ――ならばどれほど良かっただろう。いや、基軸となるのはそうしたドラマであり、傷ついた男女の触れあいにはぐっときたのだが、それ以外の要素が過剰なまでに積み重なり、最後の方ではドラマを追い切れなくなってしまった。俳優陣が若手もベテランもみな好演しているのでとても惜しい気がした。悔しかった。

主演のふたりがとにかくいい。イケメンをかなぐり捨てた岡田将生の独特の芝居。痛みを抱えた生を余儀なくされる榮倉奈々の可憐さと痛ましさ。二人の過去はまったくもって辛いものなんだけど、「辛さ」を背負った仄暗い感じが滲み出ていた。主人公に「罪」の刻印を押して退場する染谷将太も文句なしの存在感。彼が退場するショットは久々に「うおっ」と唸った。主人公たちの同僚を演じる原田泰造もお見事。ある場面で彼は「ブレーカーある?」と言うんだけど、あの自然さというか「現場の人」の感じにはちょっと驚いた。

また、人物たちが生活を営む場所、土地、風景への徹底したこだわりはさすがに「映画」だった。孤独死する人物たちの住む土地、部屋の様子など、いかにも瀬々監督らしい風景論的世界が広がっていて、ひたすら唸らされる。それだけに、どうしてそこまでして客を泣かせようとするのかとキツかったです。原作がそうなのかもしれませんが。


11月ロードショー
http://antoki.jp/index.html
公式サイト
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2011年07月09日

『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー監督)

■めちゃくちゃ久しぶりに映画館に入った。正直、心身ともに疲れ果てていたので、上映される映画がなんであれ満足したような気がする。映画に飢えていた。で、前から見たかった『ブラック・スワン』を見た。面白かったですよ。

■バレエ団で『白鳥の湖』を踊ることになったニナ(ナタリー・ポートマン)の内的な葛藤と成長をホラー/スリラー仕立てで描いたもの。ニナは「白鳥(ウブ/純潔)はいいが黒鳥(エロ/悪女)のパートはまるでなってない」とダメ出しする演出家(ヴァンサン・カッセル)とのスポ根的関係や、抑圧的な母親(バーバラ・ハーシー!)との葛藤、奔放なダンサー(ミラ・キュニス)との対立と和解を経て、奇々怪々な大団円に身を投じていく。その全体的な方向性も、一人の女性に密着する姿勢も好きだった。何より徹底的に女優映画/女性映画だったところが大変良かった。ひとりの女性に肉薄し、息使いや肌の質感の変容までをもぐっと凝視するような映画って、なんでこんなに面白いんだろう。最近はなんかもう、それだけで充分という気がしている。やっぱり自分にとって女性はすべて「他者」だからなんだろうなあ。そして何より、生物として美しいからなんだろうなあ。今の季節、満員電車に乗っていても、おっさんの汗はげんなりするほど臭いけど(おれも含めて)、女性の汗ってすごくいい匂いが……略。

■本作でもナタリー・ポートマンをじりじり追い詰める描写とそれへの寄り添いが一貫していて、ひたすら嬉しい。でも本番へ向けてテンションの高まる後半は、ヒロインの囲い込みの方法がいちいち戯画的で、怖がるよりひたすら笑えてしまった。ちょっとサービス過剰なんじゃないかしらん。

■見ながら考えていたのはポランスキーの『反撥』や『ローズマリーの赤ちゃん』、それにハネケの『ピアニスト』のこと。それら先達の映画がいかに偉大だったかに思いをはせた。特に自分がいかに『反撥』を偏愛しているかを再認識した。『反撥』という映画は、女優映画/女性映画の古典だ。ある女性の性全般に対する不安を、彼女が閉じこもる密室とそこで見る幻覚を中心に描いた傑作で、このテの映画を志向する者は誰もが憧れる。そして誰も乗り越えることができない。それを改めて知ることができた点が、本作を見ての最大の収穫だった気がする。

■とはいえ、「表現」というものが、表現者の私生活、暮らしぶり、生き方、人間としての成熟といかに不可分であるかをしっかり描いた点はとても良かったと思う。母親からの抑圧によって性的に潔癖たらざるを得ないヒロインは、ヴァンサン・カッセル扮する演出家のマチズモ指導に戸惑う。彼女が技術的には高いレベルを誇りながらも、自分の殻を破ることができず、表現に官能性や凄味が出てこないことが、ヴァンサンには不満である。ヴァンサンは彼女に対して「自分を解放しろ」と詰めより、あからさまにセックスを迫る。「セックスできれいになる!」を女性誌で特集すれば売れ筋となり、権力のある男が同じ言葉を口にするとセクハラになるってやつですね。

■こういうのは「舞台裏あるある」でおなじみの風景ながら、一面の真理を突いてはいる。「自分の殻」とは自己愛に過ぎないわけで、そんなちっぽけなものを打ち破れない表現者は、彼のステージに邪魔なだけなのだ。もちろん、こういった思考法はおじさんたちがうぶな若い娘を口説く上で格好の口実となり、先述したようにセクハラ問題に発展しがちである。だからあまりここでのヴァンサンを礼賛したくはないのだが、「自分の道を邪魔するのは自分」など、彼の台詞には名言が多い。だから舞台を成功させた彼の表情に、少しぐっと来てしまったのは確かだ。

■まあ、性的に奔放だったり、成熟、爛熟しているからといって、その人がいい表現を生むとは限らない。むしろ黒鳥を演じるために自分自身の性を開花させなくちゃ、と思い詰めるヒロインや、そう仕向けるヴァンサンの趣味と実益を兼ねた情熱には表現者の業があり、「性」ってものの厄介さ、価値、複雑さをうかがわせる。さらに言うと、これってべつに表現者だけの問題ではない。会社でも学校でも家庭でも、「自分を解放してるかい?」という問いは誰にだって突きつけられる。それが性的な話題であれば、うんざりするようなハラスメントになる可能性も大きい。そんな仕組みや空気を作っているのはもっぱら男のせいなのかもしれないが、それはともかくとして、「わたしは表現者ではないので無縁の世界」とはとても言いきれない主題を本作は扱っていたのではなかろうか。自分を解放しようとあがく女性の精神遍歴を、ケレン味たっぷりに描いた映画だと思いました。
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2011年06月14日

『絵のない夢』(長谷部大輔監督)

■青春Hシリーズ『絵のない夢』(長谷部大輔監督)を試写で。実に感想を述べにくい作品だった。

■ビジュアル系バンドのボーカルに貢ぐため、からだを売ったバンギャルの真琴(もも)は、全盲で第一級の障害者手帳を持ち、かつ、麻薬の売人である関西弁の男、一郎(西本竜樹)と出逢う。意気投合した二人は一緒に暮らし始めるが、それは愛でも恋でも友情でもない、どうしようもない人間同士のどうしようもない慣れ合いに過ぎない。やがて二人の行く先々には、血と暴力が撒き散らされる――。

■この作品が描くのは、刹那的な快楽とエゴが入り乱れる、行き当たりばったりの暮らしそのものだ。行き当たりばったりの暮らしは当然ながら瓦解する。見る者はクズのような人間たちの道行きを、感情移入のとっかかりすら見いだせぬまま見つめ続けるしかない。善人は破壊され駆逐されるためだけに登場する。誰一人として精神的な成長を遂げず、誰一人として前向きに生きる希望など持つことはない。泥沼に落ちた人間は沼底に沈むだけである。それらがアンバランスな、かなり粗っぽい手つきで綴られていくのだが、作り手の鬱積した精神の脈動だけは変わらずに根底を流れ続ける。

■一郎が暮らしているのは上野オークラの二階だ。映画館の二階に暮らす主人公というのは『濱マイク』シリーズ以来ではなかろうか。しかもそれを演じているのは西本竜樹さん。『妖女伝説セイレーンXXX』の主演で、『MiLK』でも重要な役を務めて下さった方。個人的に好きだなあと思っていたのだが、最悪な男の役作りが堂に入っている。行動はとことん悪質でありながら、汚しきれない清潔感みたいなものがあって、嫌悪感を抱かせないのが不思議だ。一方、真琴を演じる「もも」のやせ細った体躯、小ぶりの乳房は、街の底で蠢く名もなき少女の生/性を痛々しく表象する。不貞腐れたような面構えも、不幸な生い立ちやら家庭環境の問題など色々想像させるが、役柄に関する過去や背景についての説明は一切ない。バンギャルという小さな共同体に棲息する彼女は、狭い世界であくせくと足掻き、むなしく青春を浪費する。この世界にはそんな少女がたくさんいるのだ。だが作り手は彼女らを断罪することも突き放すこともしない。

■作り手は物語の「段取り」を無視し、キャラクターの暴走を放置し、プロットの安定した流れをぶった切る。谷崎の『春琴抄』を嘲笑するような「視覚」の取り扱いなど、きわめて悪趣味だが、倫理なき世界への耽溺そのものが映画だとする考え方は、やっぱり否定しがたいパワーに満ちているのだった。

■個人的な定義によると、リアルな青春映画とはすなわち「地獄巡りの旅」である。本作のヒロインももちろん地獄めぐりを踏襲する。そして悲惨さを突きぬけた先に訪れるエンディングは、見事に「映画」だった。

http://www.artport.co.jp/cinema/h2/?/movie/03/
ポレポレ東中野で7月9日(土)よりレイトロードショー
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2011年05月11日

『監督失格』(平野勝之監督)

試写で『監督失格』(平野勝之監督)を見た。


何も言えません。


9月3日からTOHOシネマズ六本木ヒルズにて先行ロードショー

http://k-shikkaku.com/
『監督失格』公式サイト
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2011年04月16日

『グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ』(村松正浩監督)

■ENBUゼミナール卒業制作の映画祭「ドロップシネマパーティ2010春」で村松正浩監督『グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ』鑑賞。とても良かった。全編深谷ロケの水晶のように透明な空気の中、老境にいる女性の、夢ともうつつともつかぬ意識の流れが綴られ、胸を衝くラストカットに着地する。しかもその後味が奇妙に心地良いのだ。バカみたいな前向きの気持ちでなく、老いを受容しつつ少しだけ前へ進む、といったさりげない手触り。慎ましい日常を生きていこうとする人間の根源的な意志。そうした感触を残すためには、43分という尺がちょうど良いのかもしれない。とにかく気持ちが良かった。

■この映画に関しては、ストーリーや人物設定について語ろうとすると、すぐネタバレになってしまう。出演者はみな二十代の若者ばかり。それなのにヒロインは「グレイト・グランマ」である。映画でしか使えないマジックである、とまではいわないけれど、映画ならではの想像力を見る者に要請する仕掛けである。そんな”お婆ちゃん”を演じるのは井土紀州監督『土竜の祭』の阿久沢麗加。趣味の良い着物に身を包むツンとした面持ちの彼女を、キャメラはひたすら追いかける。多角的に、鮮やかに、そして繊細に彼女の豊かな表情を切り取っている。ハイ、生来きつい顔の女性が好きなオイラは、思いっきり魅入られました。「阿久沢麗加の祭」でした。彼女が「女系家族の長」として若い男たちに対峙する場などまさに見せ場で、「ここぞ」を心得た強靭な演出によって高揚を誘われた。しかし彼女が強気であれば強気であるほど、映画の終わりにはちょっと切ない情緒が立ち込めるのだ。

■どちらかといえばわかりにくい映画であるとは思う。普通の脚本家にはちょっと思いつかない設定であり、構成である。映像作家ならではの力技というか、論理整合性よりも個々のシークエンスがいかに鮮やかな生気を放つかに準じた構成なのだ。しかし感性の自由を高らかに謳いあげる、といった青さはない。そこは「見せ方」の節度と品位によってしっかり統御され、個々のショットも丁寧に編み込まれている。ある場面に登場するおにぎりの映し方など、ひどく慎ましいだけに色々なことを想起させ心憎い。主題的には、今以上に真正面から「老境」に切りこめば、古井由吉の老人小説みたいに奇怪な世界が描けたのかもしれない、などと思わぬこともなかったけれど、それはまた別の機会となるだろう。特異な着想を清冽な詩情で包み込んだ、とても良い作品でした。もう上映は終了したので、今以上に多くの観客に見られる機会がほしいなぁ。

村松正浩監督公式サイト http://smalllight.net/

http://www.youtube.com/watch?v=USnOJSbFVIQ
『グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ』予告編
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2011年03月31日

『アンチクライスト』(ラース・フォン・トリアー監督)『再会』(榎本敏郎監督)

■『アンチクライスト』(ラース・フォン・トリアー監督)。あるひとつの世界観、人間観、あるいは観念と呼ばれるものをいささかの迷いもなく貫いた快作。エデンと名付けられた森にせよ、魔女狩りへの目くばせにせよ、男の脚を貫く鉄の「杭」にせよ、快楽の源泉を断つ自傷行為にせよ、贖罪という主題にせよ、かなり記号的というか、戯画的なまでにキリスト教文化を前提にしているけれど、それでいいんだ、それしかないんだ、という作家の烈しい意気込みがそれらを陳腐化しない。女に対する男のオブゼッションが主題なれど、ロリータの代表格だったシャルロット・ゲンズブールがすっかり熟女と化した即物的な肉体を投げ出すことで、女の強靭さが上回った。ボカシ入りの「衝撃映像」とやらは個人的にそれほど面白いと思わない。密室に男女しかいない、という映画世界が好きなのだ。そこで女が魂を炸裂させている非常事態な感じが好きなのだ。ベルイマンの数々の映画が脳裏にフラッシュバックして、始終ほくそ笑んでしまったよ。やっぱり北欧の宗教映画作家の発想は面白い! 

■『再会』(榎本敏郎監督)。高校生の頃、一学期だけ同じクラスだった女・月夜(栗林里莉)と偶然に再会する男(津田篤)。恋人(森山さちか)に対しても優柔不断で、仕事もままならぬ彼は、月夜にのめり込んでいくのだが……。正直、中盤までは何かこうしっくりこない感じを抱きながら見ていたものの、後半はおおおと唸らされました。あるショットから映画の様相がぐにゃりと歪み、それまで「こう」と信じられてきた世界が、「こうではない」世界へと変転する。そのショットに登場するのが麻田真夕なわけだけど、女優としてはあまりにもリスキーな……けれど世界をワンショットで変えてしまう存在感はさすが。栗林里莉の幼児体型がとてもすばらしいわけですが、その体型にさえキャスティングの理由があるという……。アフタートークで千浦僚さんが言っていたように、映画について始終考えている人ならではのトリッキーな映画だった。ポレポレ東中野で19:00〜。明日まで。
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2011年03月30日

『トゥルー・グリット』(ジョエル&イーサン・コーエン監督)『ザ・ファイター』(デビッド・O・ラッセル監督)

■地震のあとやっと映画館へ向かった。何かから逃避するものとしての映画鑑賞。『トゥルー・グリット』(ジョエル&イーサン・コーエン監督)は、エピグラフの箴言に始まり、エゼキエル書や詩篇から不気味な聖句を引用。人物がみな不完全で、格をもたせてもらえず、罪を犯せば誰であれ罰が下るといった筋の通し方に、不条理を諦念のまなざしでみつめる『ノー・カントリー』とはまた違った表現の領域を探る作家の心象が見え隠れしていた。終盤の展開は『ジェシー・ジェームスの暗殺』を連想した。とてもよく出来た映画だと思う。けどエモーションなるものをシニカルにとらえるコーエン節が今一つしっくりこなかったところも。自分個人の問題ですが。

■その点、『ザ・ファイター』(デビッド・O・ラッセル監督)は素直に良かった。しみじみと良かった。「アメリカ映画」の強さを見せつける快作だった。『8mile』とか『ナーク』って、自分の中では同じ枠内の作品なんですが、本作もそう。人物や世界観のリアリズム、巧妙に組み立てられた脚本の上に、役者が全力で「表現」に身を投じるエネルギッシュな芝居場。大好物。しがらみにあえぐ主人公って王道なれど、普遍的な苦悩でもあって。大小の悩みも葛藤も衝突もすべてをひっくるめてぐいぐい先へ進むジャンル映画のパワー。ああ、アメリカ映画っていいなあと思えたですよ。マーク・ウォールバーグの弟っぽい芝居も、クリスチャン・ベールの相変わらず狂った役作りも良かった。役者って職業はすばらしいなと思った。個人的にはメリッサ・レオ演じるむちゃくちゃなおっかさんが大好きだったなぁ。ああいう激烈なおかあちゃん像に惹かれる。

■少しずつ映画を見ていかなくちゃと思い始めています。
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2011年03月10日

『その街のこども 劇場版』(井上剛監督)

■『その街のこども』は、昨年1月17日の放映日に見逃し、再放送で見て、号泣しながら、何かこう打ちのめされる気がしたものだった。それが劇場版となって公開され、上映終了間際になってようやく駆け付けることができた。そしてやっぱり打ちのめされた。頭がバカになるほど泣いた。泣き過ぎてくたびれ果てた。

■「これは映画である/これは映画ではない」という価値判断は徐々に失効しつつある。自分の中にも「映画だ」「映画になってない」といった基準は漠然とだが存在する。だがそれは殆ど意味をなさず、もはや定義のしようがない、という感覚も強くある。本作品もTVドラマを劇場で上映していると言ってしまえばそれまでだが、脚本、演出、演技、音楽、すべてのクオリティは、映像作品/ドラマ作品として非常に高い。「何が映画か」といった問いは本作品の前に無化される。とても小さな作品だが、ここで表現しえたものは、非常に大きいし、妙な言い方になるが、輝かしい。これは阪神淡路大震災という大きな事実を基幹に持つドラマである。被災者や被災者家族の知り合いは何人かいて、色々な話を聞いたことはあるけれど、そのようなこととは別に、ドラマとして、映像作品として、高い志を持ち、かつ普遍の域にしっかり到達している作品だと思う。しかもそれを、大上段な構えの力強さや感情論ではなく、ミニマリズムと繊細さでもって表現しえている。

■森山未來の父親は建築業者で、震災後のどさくさで法外な利益を得た人物である。そのために息子である彼も周囲から憎悪のまなざしを向けられたという過去がある。いかなる局面においても「経済」というものが人類に突きつけられる永遠の課題であり、営為であり、人の倫理を問う最大のものであることを象徴するエピソード。父親がそのような形でお金をもうけたがために、彼は野球の試合でサヨナラホームランを打ったのに、選手もコーチもしーん、としていた、という「悪夢」のような経験をしてしまう。それが自分自身の罪ではないだけに、彼の傷は痛ましい。そして、サヨナラホームランに対して沈黙で応じた周囲の子どもたち、大人たちもまた、ひどく痛ましい。それは映像ではなく、森山未來の台詞だけで見事に表現されてしまう。

■災害そのものの悲惨さを描くのではなく、災害が人々の「その後」にもたらしたものを見据えるドラマ作りが徹底している。このドラマにおける生存者は、本来担わなくてもよいはずの罪悪感を、心の奥深くで抱きながら生きている。破壊されたのは建物や道路だけでなく、共同体のありようそのものであったことが、二人の若者の会話からどんどん透けて見えてくる。震災の悲劇の一側面であるこうした現象に、作り手たちは真摯に、徹底的に、ある意味、容赦なく切りこんでいく。とてつもない「重さ」に、脚本家も、演出家も、俳優も、すべてのスタッフも全力で向き合ったことが伝わって来る。自分がひどく打たれたのはまずそこだった。

■しかも、これほど大きな出来事を、コンパニオンのねーちゃんと、建築士の若いにーちゃんの一夜の道行きに集約するということ。彼らのいかにも今風の佇まい、軽い言葉、軽い行動に、作り手は絶妙の距離感を保ちながらアプローチする。フラットなカメラワークと即興と見紛うような台詞のやり取りがそれを倍加する。やがてサトエリは鎮魂の場へ向かい、森山未來は「今年はやめとく」という。この個々の選択。彼女は長年の問題を解決し、素直に鎮魂の場へ向かうことができる。だが彼にはちょっとまだできない。その時刻が到来し、道を歩く彼がふっと腕時計に目をやる。その姿をロングでさりげなく捉える、あの品性はどうだろう。

■TVで見た時もそうだったが、あんなに美しく感動的なハグはこれまで見たことがない。一生忘れられないハグだ。本当のぬくもりがそこにあるんだろうと思う。不条理に見舞われ、複雑な思いを抱えながら現実社会を生きていかねばならない人間たちの、一瞬のハグ。(ここは握手ではなく、ハグだ)と瞬時に判断するのが、森山未來ではなくサトエリであることの意味合い。本当に価値のある、本当に尊い、本当のぬくもりがそこにある。あのぬくもりのためにこのドラマがあると強く思う。凄い脚本だと思う。宝石のような映画だと思う。本作に関わったすべてのスタッフ・キャスト・協力者を尊敬します。
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2011年03月08日

『終わってる』(今泉力哉監督)

■『終わってる』(今泉力哉監督)。ずいぶん乱暴な理屈かもしれないけれど、映画作りには映画表現に対する美学と、人生観・世界観=人間学の両方が必要なんじゃないか。そのどちらかが欠けていたり、凡庸だったりすると、作品はとたんに貧しくなる。個人的にはその作家の人生哲学が見えるということがとても重要で、そこをないがしろにした作品にはあまり魅力を感じられない。好き/嫌いはその先の問題である。『たまの映画』で本編デビューした今泉力哉監督初の長編フィクション作品は、特徴的な語り口と自分だけの人間観をしっかりと打ち出した恋愛/青春ドラマとして、とても面白かった。シニカルというのともちょっと違う、人間全般に対する醒めたまなざしにも惹かれるものを感じた。僭越ながら、確かな才能を持った監督が出現した、と素直に思った。

■『終わってる』は、男女五人のどうしようもない関係を描いており、その関係性の変遷も、落とし所も、ことごとくどうしようもないのだが、「どうしようもなさ」に万事を落としこむには強い哲学を必要とする。オリジナル脚本で、特異なモチーフや現象や流行に頼らず、自分が把握し得る「実感」だけで一本の長編映画を作り上げるというのは、人が思うほど簡単なことではない。それは狭く小さな世界かもしれないが、商業映画の場で「自分の表現」をこれほど強く押し出せたというのは、やはり作家の力であるというほかないんじゃないか。

■ズバリ言うと、この監督は人間に対する捉え方、描き方が、スケベなのだ。裸がどうの、濡れ場がどうの、という問題ではまったくない。性的な存在としての人間にしか興味がない、というところがあって、そのあたり、自分にはものすごくしっくりくるのだ。だって俺もそうだもん。

■女優陣がすばらしくいい。ヒロイン的な役回りのしじみさんは最高だ。まなざしの微かな移ろい、指でカップをそっとなぞるしぐさ、自分のことを「好きだ」という男をにやにやと見つめる際の、えもいわれぬ体の動き。そのすべてに強く惹かれた。また、尻が軽いのかしたたかなのか、あるいは何も考えていないのかよくわからない女を演じる篠原友希子にはドキドキさせられた。冒頭のシークエンスががっつりと観客を捉えて離さないのは、構成の妙もさることながら、篠原友希子の醸しだすエロい雰囲気そのものである。関口崇則、前野朋哉、松浦祐也といった男優陣も、それぞれも持ち味を生かした簡潔かつ力強い演技で、他の誰とも入れ替え不可能な固有の存在感を放っている。撮影現場の実情は知る由もないが、役者にとって幸福な映画なんじゃないかと思った。

■ただ不満な部分もいくつかあって、たとえば登場人物の職業が不明瞭であることにより、「社会的動物としての人間」という側面が欠落し、ドラマの奥行きがある地点でストンと失われている。辿り着いた場所で口にされる「理」が、期待したものよりずっと平凡であるため、なんだかもやもやしてしまう。全般的にさらに観念を練り込めば、もっと深い世界が描き出せるんじゃないかと、ついお節介なことを思ってしまった。ただそれは「リアリズムは目的ではなく手段に過ぎない」という、自分自身の強固な考えに根差した偏見なのかもしれない。上映後のトークでわたなべさんも言っていたように、「伸びしろ」を感じさせる監督であることは確かである。

■ポレポレ東中野で18日までレイトショー。大味な日本映画に辟易しているひとは、ぜったい見た方がいいと思うよ。

■『終わってる』公式サイト
http://www.artport.co.jp/movie/seishun-h/owatteru/
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2011年01月28日

『イチジクコバチ』(サトウトシキ監督)

■「青春H」シリーズ最新作『イチジクコバチ』(サトウトシキ監督)を、サンプルDVDで見せて頂いた。すばらしかった。「映画」だった。

■去年、いわゆるピンク四天王の一人である佐藤寿保監督『名前のない女たち』を見た時、整合性だのバランスだのを度外視した、一生涯ロックンロールとでもいうべきガッツに強く打たれた。瀬々敬久監督の『ヘヴンズ ストーリー』も非常にインパクトのでかい映画だった。そして今、サトウトシキ監督が、映画学校在学中の生徒の脚本を使って、直球勝負に出た。それは現代版『少女ムシェット』とも言うべき怜悧な悲しみを湛えた青春映画だった。

■トシキさんは自分の本編デビュー作の監督であるし、シナリオの書き方や「創作」の在り方について絶対的な何かを叩きこんでくれた人。だから、俺がここでどう書こうが「どうせ褒めるんだろ」と思われても仕方がない。もういいんだ、そういうことは。この力強い映画に接して動揺しないなんて俺には出来ないですよ。

■高校生のみつ(水井真希)は、無職の父親(伊藤猛)とふたり暮らし。どうやら母親は家を出ていったらしい。父親は寝て起きてTVを見るだけの救いがたい腑抜けである。みつはそんな父親のそばを離れようとはしない。悪態一つつかず、まるで幼い妻のようにかいがいしく世話を焼く。周囲の者は「あの子、父親に監禁されている」と噂するが、みつは好き好んで父のそばにいるのだ。ある日、みつがバイトしていた出会い系サイトの管理人・慎吾(深澤友貴)がみつの家を訪ねる。みつがドアを開けた瞬間、運命の歯車は回り始める……。

■チラシなんかには「監禁」というきわどい字句が踊るが、これはピンク映画のタイトルが作品内容と無縁だったりするのと同じパターン。ある意味、みつは精神的な監禁状態を自ら作りだしているとも言えるが、主眼はちょっぴり歪んでいる少女みつの孤独な魂の彷徨を描くことにある。

■作品前半で印象的なのはみつと父親が黙々とご飯を食べるシーン。父娘はTVをつけっぱなしにして、会話もなく、ヒトの自然なる営みの一環としてメシを食う。ただそれだけの場面が、じゅうぶんな尺をとり、執拗に映し出される。ここで自問せざるを得ない。なんで父娘が無言で飯を食ってるだけなのに、こんなにイイ場面になってしまうのか。いやもっと直接的に言えば、非常にエロティックな雰囲気が醸成されてしまうのか。しかし、ある段階で父親は言う。「明日、メシいらないから」。その一言だけで、とりかえしのつかないことが始まるのだということがわかってしまう。永遠に元には戻れない事態が父娘を襲うのだと。その後の展開をここで語る愚は犯さない。

■みつを演じる水井真希がいい。むかしのジョアン・チェンみたいなアヒル口だが、端的に言って映画を映画たらしめる顔立ちなのだ。薄暗い家に閉じこもり、古びた絵本に読みふける謎めいた少女像は、個人個人がそれぞれ孤独を意識せざるを得ない、共同体の相互補助などというものが一切機能しない時代の空気を重く感じさせる。そして伊藤猛の殺伐としたたたずまいは、時代の闇そのものだ。彼が夜の商店街を彷徨する場面など、街に放たれた狂人のようで危険きわまりない。ヒトの存在感そのものが映画を牽引する。物語に整合性もバランスも必要ない。映画を映画たらしめる人間が動き出せば映画は映画になる、などとぶつくさ呟いてしまった。

■ここで自分が「映画、映画」とずいぶん乱暴な言葉遣いをしていることは承知している。しかしこれはもうそのようなものとして使用せざるを得ないし、そのように受け止めてもらうしかない。『イチジクコバチ』がまぎれもないサトウトシキ映画である、とするならば、その感触を言語化することのむずかしさを人は知っているはずである。

■何より驚くのは、そのスタイルの変化だ。初期作品を除くトシキさんの画というのは、カッチリ作り込んだフィックスの画を淡々と積み重ねていくことで、「透徹したまなざし」というものを現出させるスタイルだった。ここでは全編手持ちの自由なスタイルに変貌を遂げている。手触りとしては初期作品に近いが、ここまで人間たちの息遣いに密着したことはなかったのではないか。濃密で息が詰まりそうな映像世界は、本作品の主題とも不即不離。見た人と色々語り合いたいがしばしの我慢だ。また、ラストの展開についてもここには書けない。

■でも一つだけ言わせてもらえるならば、俺は不意打ちのようなラストの台詞に泣きました。やられた。

■『イチジクコバチ』はポレポレ東中野にて明日夜からレイトショー。必見!

http://www.mmjp.or.jp/pole2/
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2011年01月16日

『ソーシャル・ネットワーク』(デビッド・フィンチャー監督)

■企画の存在を知った時点から首を長くして待ち望んでいた作品。ようやく見ることができた。大変面白かった。実に刺激的だった。見た後、映画を一緒に見に行った友人と小一時間熱っぽく喋ることができた。

■入口はきわめて現代的だが、辿り着く先は普遍的な物語。ただし、これを本当に「普遍的」という言葉で言い表していいのかどうか。この映画が感じさせる「新しさ」の要素は、実のところ、驚くほど精巧に組み立てられた脚本のみならず、監督の人物理解や演出手腕によるところが多々あるような印象を受けた。いずれにせよ、見る者の世代、知識、身を置いている業界などによって色々な見解が成り立つ映画であるように思う。

■本作品の主人公、マーク・ザッカーバーグは「Facebook」 http://ja-jp.facebook.com/ の創始者である。自分はFacebookには知人から招待されるがままに登録し、使い方、活用法が今一つわからないまま放置している。それはどうやら、日本国内においてとてもありがちな現象らしい。要は面白さが今一つわからないのである。だいたい「友達」という観念に、はなっからアレルギーを持っている自分のような寂しい人間は、「友達」だの「仲間」だのという言葉を前面に押し出すSNSなんて気が滅入ってくるんだ。しかし、そんなことはどうでもいい。

■ネット上には次から次へと新しいツールが出てくる。それを無邪気に歓迎する一方で、新たなシステムを前にした感情的な反応が必ず出てくる。ブログ文化が隆盛を誇り始めた頃、ブロガーを批判する人たちが主に紙媒体の側から出てきたし、mixiが登場すると、その排他性を批判する人が多くいた。最近ではツイッターがその対象だ。今自分がFacebookを前に困惑しているのも同じような事態といえる。自分を含めて、ある世代以上の日本人には、ネット文化に対する偏狭というか保守的な気分があるように思う。ネットを「もう一つの現実」としてのびのびと活用する若い世代に対する偏見や怯えにも似た不安感があるのかもしれない。『ソーシャル・ネットワーク』はそうした若い世代を描いた映画だ。先に「人物理解」という書き方をしたが、マーク・ザッカーバーグはその世代ならではの若者の、一種「象徴的な天才」のような捉えられ方をしている。

■マーク・ザッカーバーグは現在まだ26歳か27歳の若者だ。youtube等にアップされている彼のインタビューを見ると、陽気であり、ジョークを飛ばす若く快活なCEOといった塩梅で好印象だ。だが映画『ソーシャル・ネットワーク』の彼はそうではない。オタクであり、友人が少なく、礼儀知らずで、不遜で、冷酷な言葉をはっきり口に出す。映画は彼の十代後半から二十代前半の間の物語であるからして、必然的に青春映画の様相を帯びてくる。ハーバード大学在学中、もしかすると剽窃かもしれぬアイデアが彼の脳裏にひらめき、寮の同室の仲間たちがその発展にあらゆる面で寄与する。始まりはとても情熱的で、牧歌的で、クリエイティブだったFacebookが、ビジネス上の大成功を収めると同時に、個々の立場というものが生まれ、目に見える結果を出す者だけが認められるという、実社会の過酷さに直面し、はじめにあった友情のようなものは滅び去る。「あれは俺のアイデアだ」だの「ああ言った、こう言った」という足の引っ張り合いみたいな諍いが始まってしまう。

■これって、業界・業態・業種は違えど、どこにでもありそうなお話である。あるいは「どこにでもありそうな話」という定型に、収め切った映画なのだと言える。ある種の定型に辿り着くというのは、良い映画の鉄則である。ただ、ことはそう単純ではない。主人公であるマーク・ザッカーバーグの内面というものは、わかるようでいてよくわからない。否、天才的な人間ゆえ容易にその心理に立ち入ることが困難な人物として描かれている。むしろ、彼に切り捨てられる相方・エドゥアルド(アンドリュー・ガーフィールド)の方がはるかに観客にとって理解しやすく、身近で、共感を得やすい「普通の人」として描かれている。映画がもし悲劇であるとするならば、それはエドゥアルドの直面する事態がわかりやすく悲劇的だからだ。

■映画館を出ると、男性客の一人が「クズ野郎だったなぁ」と友達らしき同行者に語りかけていた。「クズ野郎」とは恐らく”映画『ソーシャル・ネットワーク』におけるマーク・ザッカーバーグ”のことだろう。そういう理解も、あるいは可能なのかもしれない。だが、自分は映画で描きだされたマーク・ザッカーバーグを「クズ野郎」とは少しも思わなかった。彼はエゴイストかもしれないし、明らかに他人の気持ちを読めない。冒頭では恋人の通う大学を「三流」と言い放つ。これといった悪意もなく。これはもう、「そういうひと」なのだ。恋人に捨てられた彼は彼女の悪口をブログに書き散らす。なんという若気の至り。だがそれについてはそれなりの報いも受け、反省もする。いたってありがちな事件だ。その後の彼の軌跡に関しても、自分は正直に言って、それほど悪辣なものを感じ取れなかった。また『市民ケーン』のような大人物の孤独を描いた物語という風に受け止めることも出来なかった。いや、そのモダンなバリエーションとして製作していることは重々承知の上なのだが。

■映画は一つの企業、ひとつの組織が大きくなるために辿る、しごく当たり前のプロセスをなぞっているのであり、「勝者の論理」の何たるかを提示しているだけにすぎない、ともいえる。彼は一緒にFacebookを立ち上げたエドゥアルドを見捨て、彼の才覚を見込んで接近してきた山師のようなショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク好演!)を採用する。彼のけた外れの行動力と豊かなアイデア(「ザ・フェイスブックのザを取れ。クールだ」)こそ、映画におけるFacebookを大きくするために必要な存在だったからだ。それに、エドゥアルドはマークが望むような営業結果を出せなかったばかりか、感情の赴くままに子どもっぽい反抗的行為を遂行したりもした(うまいのは、エドゥアルドを捨てるための打算的行為をマークがしたのではないかとも捉え得る描き方をしていること。この両義性がドラマ上のいたるところにはめ込まれ、単一的な読みを無効化する)。

■これは巨万の富を目指すために親友を見捨てた、といったドラマティックな文脈で読むべき性質のものではなく、ある企業が上昇する上で避けては通れない、一つの段階に過ぎないのではないか。わかりやすい情緒に落としこむ愚を避けようとする冷静さを、脚本家かあるいはD・フィンチャーは少しは持ち合わせていたように思う。この作品が新しい、と感じさせる要素のひとつはここにある。

■ここに杉本穂高さんが訳出した、ハーバード大学教授、ローレンス・レッシング教授による作品レビューがある。映画を見た人は一つの観点としてぜひ読んでみて欲しい。

http://hotakasugi-jp.com/2011/01/14/lessig-social-network-review/#more-126

■ともあれ非常に良かった。映画の統一されたルック、知性を感じさせる音楽、スピーディな編集、それを可能にする細分化され、再構築された構成、若き俳優陣の好演。何といっても、時代に大胆に切り込んだ企画そのもの。公開中にもう一度見に行くと思う。こういう完成度の高い映画を見ると、ハリウッドって凄いんだな、と素朴に思わせられる。邦画不況なんて嘆く前に、「本当に面白い企画は必ずお金を産む」という真理について、きちんと向き合わなければ、と襟を正した。
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2011年01月11日

『相棒―劇場版U−』(和泉聖治監督)

■『相棒U』はれっきとした三角マークの映画だった。細部に仕掛けられた謎とその解決といった『相棒』フォーマットを踏襲しつつ、復讐、裏切り、殺人、自分なりのルールと正義を貫こうとする男たち・女たちの群像、そして何より、決して崩れぬ権力という牙城へ向け、ギラリと刃を煌めかせるラストシーンが、やくざ映画のそれだった。みぞおちに響く映画はいい映画、という持論を発動せざるを得なかった。

■第一作目はイラク人質事件に材をとり、マラソン大会と同時進行的に進む大規模な人質事件を描き、最後には直球勝負の「国民」批判をしてのけた。第二作は警視庁占拠事件という導入だが、『ダイ・ハード』のようなスリリングな活劇にはならず、「あの事件は何だったのか」を遡及的に探る物語となる。やがて浮かび上がるのは公安の闇であり、そして、事件を利用しようとする腹黒い警察幹部たちの権謀術数であり、「正義」をめぐる男たちの暗闘だった。

■ある登場人物が言う。「まさか世の中に絶対的な正義があるとでも思ってる?」。人々はそれぞれの立場や思想や哲学や倫理に依る「それぞれの正義」を貫くしかなく、その結果、意を異にする者との衝突が起こり、ある者は勝利し、ある者は敗北する。正義を素朴に信奉する者がいれば、不正義を行っていることを自覚しながら、より大きな正義のために不正義を行う者がいる。そこにはあらゆる「悲劇の種」が埋まっている。悲劇を生み出すシステムはわれわれが生きる日常のあちこちに転がっており、多かれ少なかれ、われわれは複雑に絡まり合った種々の思惑から逃れられない。『相棒U』はさまざまな経路を迂回しながらその普遍的な議論に辿り着く。ただし、この映画が警察上層部の「正義」を主体としていることで、問題は巨視的=神々の視点を帯びてゆく。『総長賭博』を三島由紀夫が「ギリシャ悲劇のようだ」と評したことと同じような重厚さを醸しだす。

■TVシリーズならば、もう少し精巧で抑制のきいた作りとなったやもしれぬこの題材は、随所で乱暴な展開を見せる。ある人物がこの物語で退場を強いられるのはあまりにも惜しい。それでもなおぐっと胸に迫るものを残すのは、『相棒』シリーズが長い時間をかけて築き上げてきた官僚批判、あるいは組織と個との相克という得意分野をようやくスクリーンで見せてくれたという感慨によるものだし、その味わいが先述したようにある種のやくざ映画のそれだったからだ。のみならず、冒頭のラムネと神戸の意味ありげなシャワーシーンや、「それって陣川君の兄弟じゃ…」と言いたくなるキャストの楽屋オチ、ところどころに仕込まれた細かな笑い、精巧さよりもケレンに賭けた作劇等々、久々に「これぞ三角マークのシャシンや」と呟きたくなる映画だった。

■小西真奈美がすばらしい。女優の見せ方について一家言ある監督の撮り方だった。
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