2011年01月08日

明日9日(日)、下北沢トリウッドで上映中の『破戒尼僧YUKI』トークゲストに「映画時代」の佐藤洋笑氏が出ます

■明日9日(日)、下北沢トリウッドで上映中の『破戒尼僧YUKI』(山本俊輔監督)のアフタートークに、「映画時代」の佐藤洋笑氏がわたなべりんたろう氏と登壇します。わたくしは所用あって伺えないのですが、みなさまぜひ駆け付けましょう。

作品の上映は19:00〜から。尺は32分です。

http://homepage1.nifty.com/tollywood/
(下北沢トリウッド)

■作品は街で托鉢をしている尼僧が、悪党相手に派手な立ちまわりを繰り広げる活劇。敵となるのが、満面の笑みを浮かべた黄色いTシャツを着たボランティアの方々とか、余命二週間の花婿といった善意の人たちと弱者。。。なわけはなくて、そういったお涙ちょうだいを隠れ蓑に、悪事の限りを尽くす悪い人たち。橋脚を不法占有する「どん底」風ホームレスに『妖女伝説セイレーンXXX』にも出演していたホリケン。さんが。いた。尺が短いのでパイロット版のような構成になっていますが、偽善を憎む和製アクション好きの方は楽しめるんじゃないでしょうか。佐藤くんがゲストになるのはわかるなー。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

『悪魔がきた』『壊したいおもちゃ』(坂井田俊監督)

■1月15日から下北沢トリウッドでレイトショー公開される坂井田俊監督の二作品、『悪魔がきた』『壊したいおもちゃ』をDVDで見せて頂く。どちらも30分の短編で、『悪魔がきた』が最新作のようだ。

■先に言っておくと、二作品とも「ストーリー」はあってないようなもので、断片的かつ抽象的なイメージが総体としてそこに在る、といった作り。少なくとも自分にはそう見えたけれど、『壊したいおもちゃ』の方には比較的ドラマティックな要素がある。刑事が容疑者を取り調べるシーンまであるのだから(警察署の外観を隠し撮りしているのが涙ぐましい)。ただ、作品を見た後、チラシの解説を読んで、初めてどういう話なのかがわかったのは、こちらの読解力が足りないせいなのか、あるいは作り手の説明不足、演出力不足ゆえなのか。自主制作によくある観念的な映像作品、と断じることができれば気も楽なのだけど、そもそも自分は自主制作映画をそんなに見ていないし、坂井田俊監督のこの二作品は「いやなもの」をこちらに残してくれたのであった。

■『壊したいおもちゃ』は、「通り魔」をめぐる複数の少年/青年の話で、『悪魔がきた』は夜の街を徘徊する人殺しの男と彼の周りの複数の青年の話……のようだ。もしかすると間違っているかもしれない。

■いきなり極私的な話をする。18歳のとき「刃物を手にした青年が夜道で女を刺そうとした瞬間、別の通り魔が現われ、その女を刺してしまう」というプロットを書いた。物語が広がる可能性を秘めながらも、話はそれ以上膨らまなかった。その後何年も経ってから、「人を殺そうとしたら、同僚が先にそいつを殺してしまった」という導入を持つ映画『アカルイミライ』を見た。こうした「通り魔」あるいは「自己の分身が遂行する殺人」をめぐる妄想は、鬱屈した思春期を送る青年が抱きがちな捩じれたロマン、つまり類型的な話なんじゃないかと思った。『壊したいおもちゃ』を見てそのことを思い出した。

■孤独な魂を持てあましつつ歩く夜の道。そこは彼にとってきわめて犯罪的な空間である。すなわち性的な世界である。弱さからくる暴力衝動。病的なまでの自意識。頬ずりしたくなるほど欲しい熱い血潮と柔らかい肉。つまるところ彼が求めているのは他者とのコミュニケーションである。まさかそこに自分と生き写しの衝動を抱えた怪人がいて、自分がするはずだった凶行を先取りされてしまうとは。「自分が遂行するはずだった凶行を、誰かに先行されてしまう」。先を越されることの意味を考えると、端的に、犯罪者にならなくてよかった、自分の代わりに誰かが悪魔になってくれたおかげで今の自分がいる、という都合のよさを払拭しがたい。それは一種の甘えである。だが『壊れたおもちゃ』は出てくる少年/青年はいずれも交換可能な存在として等価に描き出されており、ラストカットでは今これを見ている観客さえもその法則から逃れられないのだと宣言する。

■『悪魔がきた』は捩じれたロマンとしての殺人・通り魔から、さらに闇の奥へ一歩進んだ作品と言えるのかもしれない。ただし、いかんせんわかりにくい。台詞を排し、僅かな字幕のみで展開される物語は、それゆえ内面化が著しく、とっつきにくい。しかし、その不明瞭な世界は作家的な個性がより先鋭化していることを示すものでもある。特徴的な引きのショットに加え、音響への若干不器用な作為が変に生々しく、良い意味でさらに「いやなもの」を見せられた気分になる。

■二作品の印象は「・」だ。ナカグロのような作品ということだ。即物的なまでに凝縮された黒い点が二つある、そんな感じがした。84年生まれの監督が今後どのような作品を作るのかはわからない。ただ『悪魔がきた』に関して言うと、「悪魔」という用語は、必然的に一つの文脈を導き出してしまう。登場人物の住む部屋が、西洋では煉獄を意味する赤、乃至、橙色の照明で映し出されたのはその文脈に沿った演出をしたということである。作家が「文脈」を見いだした時、「点」に過ぎなかったイメージは、「線」によって、否応なく「物語」を編み始める。

■星は個々の存在理由に従ってそこに存在する。人類は星と星との間に線を引いて星座=物語を編み出した。その恣意的な操作は星それ自体の純粋性を打ち消すが、「星たちの世界」というものを幻視させ、星座に物語を仮託せずにはいられない人類についての思考を促す。それが虚構であり映画というものではなかったか。

■そうした方向性がこの純粋過ぎる作家にとって良いことなのか悪いことなのかはわからないが、映像そのものにこだわるだけでなく、観念を物語化する作業に比重を置いても良いんじゃないかという気がしたのも事実である。


『悪魔がきた』『壊したいおもちゃ』は1月15日(土)〜下北沢トリウッドにてレイトショー(20:00〜)

http://homepage1.nifty.com/tollywood/
(下北沢トリウッド)

http://akumagakita.blog24.fc2.com/blog-entry-1.html
(公式blog)
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月26日

『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)

■川崎市市民ミュージアムで行われていた「脚本家 馬場当」も本日最終日。神代辰巳の『遠い明日』をぜったい見るぞと思っていたのに、結局今日も寝過ごしてしまい、見逃した。『復讐〜』も後半だけ。でもやっぱり凄かった。

■ワンシーン、ワンシーンの密度が違う。練り込み具合が違う。人間観の深みが違う。浅く流すところが一つもない。イマヘイはよく「人間を丸ごとつかむ」と言ってたらしいけど、そういう「神」に近い視点でしか醸しだせないユーモア、というものが確かにある。

■映画は映像表現である。したがって映画とは画面である。だがそこで思考停止してはならない。画面の奥に幾重にも編み込まれた観念や時代性や政治性や人間学や哲学というものがある。それが重層的であればあるほど、その映画は普遍性を獲得し、深い輝きを放つことが出来る。「読み解く」快楽こそ映画の魅力である。イマヘイがフィルモグラフィで追求し続けたのはそこだ。昨夜CSで『うなぎ』を放映しており、ついつい見てしまったが、晩年の作で「枯れた」等と言われがちな『うなぎ』でさえも、自分の目からは傑作だ。

■なんだろうな、自分が「くだらない」と感じた映画に対しては、はっきり「くだらない」というか、あるいは礼節をもって無言を貫くことのほうが正しいような気がしてきた。「ちょっといい」「良いところもある」というのは、「くだらない」と同義だ。自分はこれまで、ちょっと映画に対して優しすぎた。そんな気がしている。その優しさは作り手としての自分にはねかえって来るんじゃないか。凄絶きわまりない『復讐〜』を見ながらそんなことを考えた。馬場さんは俺のシナリオを褒めたことが一度もない。実際にはシナリオ講座に通っていた頃、一度だけ「面白い」と言われた。だがその一度きりだ。その厳しさを自分もそろそろ身につけたいと思い始めた。高望みだろうか。

■映画界が大変だぁ、という話をよく耳にするし、実際その通りだと思う。だからどうしたっていうんだろう。質的にはヌルイ時代じゃないの。誰でも映画を作れるんだからさ。

■映画の後、馬場さんや見に来ていた方々とお茶をして、最後に松屋でめしを食った。長く師匠の話に耳を傾けた。いい年の瀬だった。今回の特集上映のおかげで、気持ちを改めることが出来た。来年の課題が見えた。こういう機会を与えてくれた企画者に感謝。映画文化の継承とはこういうことだと思う。
posted by minato at 23:35| 東京 ☀| Comment(6) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月23日

『帰郷』(西河克己監督)

■『帰郷』(西河克己監督)。師匠の特集上映も終盤戦。なのに5分遅れつちまった。日活制作の64年度作品。キューバ革命の混乱で父(森雅之)が死んだと聞かされていた伴子(吉永小百合)。母の節子(高峰三枝子)は大学教授の隠岐(芦田伸介)と再婚し、今は幸せな暮らしを送っている。ところが父は生きており、日本に帰国することが判明。動揺する伴子、節子、隠岐、さらには、キューバで森雅之と愛を交わした渡辺美佐子らの心理に迫った心理劇。

■加齢をものともせぬ森雅之のダンディな立ち姿。異国にいる姿はまるで『浮雲』のそれ。それに対しやたらと「苛め抜いて欲しいのっ!」と叫ぶ愛人の渡辺美佐子。しばしばこうしたかたちで噴出するサディスティックな味わいがいかにも師匠の技。後半、帰国した森雅之のもとを吉永小百合が訪ね、ふたりで晩御飯を共にする場面。「私、お父さんが好きです!」と叫ぶ吉永小百合。直後、意味不明にカットインする庭の情景。それってもしや『晩春』クライマックスにおける「壺」ですか……などと下司の勘繰りをしてしまうのは、やっぱり師匠脚本だから。実父と育ての父のどちらを選ぶか、なんて葛藤が最後にあるが、どう考えても育ての父を選ぶ風にしか傾かないのが何とも。ちょっと奇妙な味わいの映画だった。

■終映後、俳優のN口さんとばったり。お茶。N口さんという人は映画学校の遠い先輩に当たるわけですが、ものすごい勉強家で、話を聞いていると自分の勉強不足を痛感する。

■ようやく武蔵小杉駅から川崎市市民ミュージアムへの道のりを覚えたのに、最終日の『遠い明日』『復讐するは我にあり』で最後かな。ちなみにこの特集の企画者は若い女性。びっくりすると同時に、とても感謝したい気持ちです。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月19日

『素敵な今晩わ』(野村芳太郎監督)『岸壁』(中村登監督)

今日も川崎市市民ミュージアムで「脚本家 馬場当」。

『素敵な今晩わ』(野村芳太郎監督)は、自動車教習所の冴えない指導員(犬塚弘)は、銀座で見かけた美女(岩下志麻)に一目ぼれ。拾った犬・チビを抱いて寝ると夢の中で彼女と会えることに気づいた彼は、夜ごとチビを布団に引き入れて眠るのだが……というお話。犬塚弘のヌケサクっぷりと岩下志摩の美しさに魅力があるものの、全体的に平板&単調。ここまでヒネリのない脚本も珍しく、(師匠でも筆を誤ることがあるのだな…)とほくそえんでいたら、「自分が書いた場面で残っているのは一つか二つくらい」と馬場さん。実際に書いたシーンのいくつかを聞かせてもらったら、『恐怖新聞』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を先取りしたかのような凄い話だった……。なぜこうなったのか、今となっては誰にもわからない。

『岸壁』(中村登監督)。これが馬場さんの一本立ちの作品で、実質的なデビュー作だという。さすがに面白かった。横浜を舞台にして、船長(山村聡)、密航を企てた青年(鶴田浩二・若い!)、船長の情婦(淡島千景・色っぽい!最高!)、それに船長の娘(東谷瑛子)らの運命が複雑に絡まり合っていく心理サスペンス。ちょっとフランス映画、中でもジャック・プレヴェールを思わせるペシミスティックなタッチで、男女の三角関係が悲劇的な結末を迎えるまでをぐいぐいと活写。ギザギザした男女の心理のせめぎ合いに作家性が色濃くにじんでおり、唸らされる箇所多数。人物の心理を象徴する花の使い方(おてんとさまに顔向けできる人間と出来ない人間)、戦中派のニヒリズム、悪党どもの暗躍、整合性を無視して人物たちを谷底に叩き落とさずにはいられぬ作家の怒気。すなわち後年悪の華を咲かせる馬場イズムの祖形である。ぞくぞくした。

「岸壁」というタイトルは、学生時代に出していた同人誌の名前からきているという。一本立ちにするにあたり、パーソナルな部分を作品に練り込む喜びは、僭越ながら自分にも少しわかる気がする。

そのまま鶴見に移動して今夜は馬場さんの忘年会。毎年、鶴見のメンバーの顔を見ると、ああ、一年が終わるなあぁ、という感じがする。ことしはいい年だった。自分の仕事も充実していたし、映画学校で指導した生徒の一人が城戸賞準入選したし、馬場さんの特集上映まで行われた。いい年だった。
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月15日

『アレクサンダー大王』(テオ・アンゲロプロス監督)

『アレクサンダー大王』(テオ・アンゲロプロス監督)

シナリオに没頭し、徹夜明けの疲弊しきった頭で、なんでこんな長大な映画を見ようと思ったのかはもはや定かでない。208分の後、脳がギラギラと冴えわたって眠れなくなってしまった。ギリシャの近現代史も、アレクサンダー大王についても、ましてやコミュニズムやアナーキズムについても無知な自分である。ここに込められた、描き出された世界を十全に把握し理解したとはとうてい言い難い。それでも、ノックアウトされてしまった。凄い、物凄い映画だ。

20世紀始まりの夜、“アレクサンダー大王”率いるギリシャの山賊が英国貴族を拉致誘拐する。彼らは「共産村」という村に立てこもり、人質の解放と引き換えに、地主には土地の返還を、政府には獄中にいる同志の恩赦を要求する。村は政府の部隊に包囲され、水面下での交渉が開始される。だがアレクサンダー大王も政府も、強固な姿勢を一向に崩そうとはしない。イタリアから来たアナーキスト集団やギリシャ政府、英国を巻き込み、事件は手のつけられぬ事態に発展する。

知識ある者にとっては何をかいわんやではあろうが、これはアレクサンダー大王についての映画ではなく、「アレクサンダー大王」と呼ばれる20世紀の怪人を主人公にした映画なのである。しかも、ややこしいけれど、やっぱりアレクサンダー大王についての映画でもあるのだ。

共産主義国とも要塞とも王国ともつかぬ「共産村」なるユートピアが、内部に独裁者という罪の種を孕み、外部とののっぴきならぬ緊張関係にさらされながら、ついには自壊してゆく。その鯨の腹の如き重厚な物語を、あのアンゲロプロス独特の壮大な演出で描き切っている。ともかく重心が低い。主題と手法が完璧に合致し、悠然とした語り口に落ち着きと余裕を与えている。台詞は少ないのに、寓意、象徴、歴史、政治、外交、ギリシャ神話、詩、革命、あらゆるコンテクストが、声をあげたくなるほど重層的に編み込まれていて、とてつもなく分厚い。広辞苑くらい分厚い。ゆったりした映像のリズムがそれをハンパない重力として伝えてくる。

アレクサンダー大王はどこかピエロのように見える。彼はほとんど言葉を発しないし、しばしば癲癇の発作を起こす。育ての母と結婚した彼は、婚礼の日に自分を狙った敵から母を射殺される。血染めの花嫁衣装は今なお壁にかけられている。彼の私生活やセクシャリティはどこか歪んでいるのだ。彼は村人たちを翻弄するが、一方では村の知性であり良心かもしれない「先生」と呼ばれるコミュニストとの対立関係をやむなく生きてしまう。

ここにおける村人たちの描き方は、自分の頭ではものを考えることのできない衆愚そのものだ。おめでたい連中なのだ。そのことが痛烈に、また冷徹に、無言のうちに描かれるのが終盤だ。それがもう、言葉を失うような、圧倒的な映画表現で描かれている。ラストシーンも心憎いほどに決まっている。見事な構成力、見事な発想、見事な演出である。この人、ほんと凄いんだな。

幸いにも「テオ・アンゲロプロスシナリオ集」があるので、いくつか印象的な台詞を抜きだす。

「いまわしい仮面が落ちて、後には人間が残る。王もなく国境もなく、自由で平等で、階級や部落や国家をもたない人間が残る。恐怖も宗教も身分もない、自分自身の王である人間。まるで夢のようだ」(これはシェリーという詩人の作品からの引用らしい)

「なぜ政府は恩赦を認めないのだ?」「憲法で禁じられている」「憲法は誰が作った?」「国民だ」「人の手が作ったものは、人の手でこわせる」

「アレクサンダーがやっているのは、一人のカリスマ的人間の意志による政治だ。彼には自分の行動を曖昧にしてしまう能力が備わっている」「そんなことを言うが、あなたは全体の決定に従うという誓約をしたはずだ」

現在日本を生きる自分にもぐさっと突き刺さる映画だった。

よく考えたら、10年も前に一度VHSで挑戦して、「なんだこの小難しい映画」と思い、途中でやめてしまっていたのだ。こういうことはよくある。仕方ないと思うしかない。知識を蓄え、経験を積まなければ決して見えてこない世界はあるのだ。と、自分自身に言い訳しておく。
posted by minato at 19:59| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月08日

『泥の惑星』(井土紀州監督)は必見である

映画一揆『泥の惑星』(井土紀州監督)。

今日を含めあと二回しか上映がないので先に言っておく。「映画一揆」の掉尾を飾る作品として、また、井土紀州監督が新しい領域に足を踏み入れた作品として、必見である。

農業高校を舞台にした少年少女の群像劇だ。中心となるのは、他校から転入するなり天文部を立ちあげ、天体観測を好み、他愛なく高校時代を過ごす同級生らを蔑視しているアキ(千葉美紅)。彼女は学校の植物が枯れ始めていることを拡大解釈し、世界の滅亡を夢想する。彼女に恋する男、ハルキ(上川原睦)は典型的なモラトリアム。そこにシアトルで五歳まで育った「Mr.留年」と呼ばれる帰国子女の男(小林歩祐樹)が絡んでくる。

宇宙や世界の滅亡といった巨視的な視点を持つアキと、将来にこれといった希望もなく、蓮根畑で泥まみれになってモラトリアムを生きるハルキの微視的な視点が並置されることで、映画は大きな振幅を持つ。宇宙や世界滅亡の夢想に耽溺するアキの行為は、等身大の自分自身と向き合わないための逃避として作用する。逃避は思春期ならではの不安から生じる。ハルキは最初それを読み解くことができないし、また、観客も彼女の孤高のありようを、神秘的なものとして受け止める。物語はその齟齬を埋め、現実に立ち帰り、新たに「生き直す」過程そのものにある。

一方、Mr.留年は「ライ麦畑でつかまえて」を原書で読むといういささか時代錯誤的な趣のキャラクターだが、彼は自分のことを「ホールデンと呼べ」と人に言い、そう言った直後、自分で吹き出す。それはホールデンへの自己同一化への羞恥であると同時に、もはや自己同一化さえ儚い希望に過ぎないことを知ってしまった、重いニヒリズムの表出でもあろう。

現実との折り合いのつけがたさを、飛躍した思考によってごまかしてしまう悩み多き思春期。その不安定さを、主要人物のみならず、農業高校に通う少年少女らすべてに、シーツ・オブ・サウンドもかくやという勢いで絨毯爆撃していく。だがそれらを浮き彫りにするのは、やはりマクロとミクロの大胆な構図が力強く機能しているがゆえなのである。難を言えば脚本の持つ硬質な観念性に演者すべての演技が追いついていないのだが、その無名性ゆえに、却って「何者でもない無名の少年少女」である、かつての私たち大人のあの頃の軌跡がやるせなく俯瞰できるのである。

やがて彼らは一つの痛ましい通過儀礼を経て、それぞれ自分自身に向き合い、大人への第一歩を踏み出すことになる。ラストシーンには思わず涙腺が緩みました。そう、すなわちこれが青春映画である。

思春期を描く上で、大胆な切り口を提示する映画と言えば、自分が真っ先に思いつくのは、何と言ってもリチャード・ケリーの傑作『ドニー・ダーコ』である。あの映画も飛行機のエンジン落下やループといった手練を尽くして思春期の儚さや痛みを鮮烈に打ち出した。『泥の惑星』はあくまでリアリズムの枠に留まることで、ギリギリの現実味を保つ。これは脚本の天願大介の感性であり、方法論なのかもしれない。『うなぎ』に出てくる「UFOを待つ少年」というモチーフは、彼の発案だと聞いたことがある。奇想を通して何かを伝える方法論があることを、本作のおかげで思い出すことが出来た。

屋外でのざっくりした構図と屋内の繊細なライティングでコントラストを際立たせるキャメラ(高橋和博)。校舎という空間の鮮やかな把握。丹念に計算されたフレームの人物の出入り。本作に接する時、人はこうした映画演出の細部を見逃してはならないと思う。ハルキの住む家が何度か登場するが、そのロケーションも秀逸。低所得者層を体現するような錆びついたあばら家。だが川の向こうには瀟洒な新興住宅が白々しく建ち並んでいるのである。ハルキという少年の家庭の貧しさ、劣悪な生育環境がワンショットで表現され、多くを物語っていた。ハルキの妹が、またどうしようもない感じのねえちゃんで、じつにリアルだった。ともかく、『泥の惑星』はとても力強い青春映画だった。

この夜はマッスル安田グループライブとして、太陽肛門スパパーンの花咲政之輔をサイドマンとしたライブ演奏が行われた。セッティングにかかる時間を節約するため、映画を上映したスクリーンから、客は別のスクリーンに移動してライブを楽しんだ。まずこの「移動」がいい。映画が終わったばかりの劇場から、仄暗い照明の劇場に移行し、映画の余韻を壊さない、むしろ倍加するようなライブを楽しむ。これが素晴らしかった。『ラザロ』『LEFT ALONE』『行旅死亡人』等々、映画一揆で上映された作品のサウンドトラックが演奏され、ユーモアと寂寥、感情の迸り、叫びが混然一体となって、ローランド・カークのアルバムを一枚聴き終えた時に感じる、ごった煮の熱くやるせなきブルースを感じることが出来た。生音を基盤とした演奏は、音楽の持つエネルギーを直接感じ取るのに最適なのだ。最後に演奏された「よく見た見える」(『ラザロ』より)の静謐なる絶唱で、スペシャルな宵は幕を閉じた。

『泥の惑星』もフリーキーなサックスが突如ドラマを奔らせるが、このライブはその延長線上に位置しているようだった。思わず『ラザロ』サントラ買っちゃいましたよ。

繰り返すがあと二回の上映をくれぐれも見逃さないように。
posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

『ピラニア』(井土紀州監督)

試写で『ピラニア』(井土紀州監督)。

いみじくも先日の「映画一揆」のトークイベントで話題となった「青春H」シリーズに、井土紀州監督が登場。プレスリリースによると、今後も山口智、サトウトシキ、今泉力哉、鎮西尚一、榎本敏郎といった中堅・若手の作家たちが名を連ねているという。それはさておき。

定食屋で働く吃音症の女(白井みなみ)は、脚の悪い弁当屋の青年(並木幹雄)に片思いをしている。女が弁当を食べる池では、教師を首になった男(吉岡睦雄)がピラニアを放ち、自分を追放した学校関係者を皆殺しにしてやると息巻いている。物語はこの三者の関係を中心に展開する。

まがまがしいタイトルから、泥臭く凶悪な作品世界を想像していたが、実際には「青春H」というシリーズ名にふさわしい恋愛=青春映画に仕上がっていた。

井土紀州という監督は、自分の知る限りにおいて、「劇とは何か」について考える人である。先日、「映画一揆」で拝見した『土竜の祭』という作品も、主人公格の女と、いわば「悪役」である女との間に、のっぴきならない過去の因縁話を設定し、ギリギリと音を立てる硬質な劇構造を構築していた。勧善懲悪に象徴される二元的な人間観をある段階まで退け、多元的な人間観を下敷きにしてドラマを展開する。それによって、「劇」は研ぎ澄まされ、重力を備え、独特の磁場を構成する。個人的にはそれがシナリオの強度、映画の強度に繋がると信じているし、井土監督もきっとそういう考えの方なのだろうと勝手に思っている。

『ピラニア』における主要人物三名も、ある時点からのっぴきならない地平へと追い込まれていく。その起点となるのは言うまでもなく「犯罪」だ。だって井土監督だから。しかしここでの犯罪は、法に触れるか触れないかのありふれたものであり、「よくある話」の領域にとどまっている。にもかかわらず、本性を現した犯罪者はかなりの「悪」のイメージを纏って描かれる。やや突発的に、そしてやや戯画的に「悪」である。そのことが、本作の方法論として正当だったのかどうか。そこが難しかった。「難しい」というのは、その「悪」を受けた形で展開される暴力場面が、やたら生き生きしており、映画のフィクションとしては正当ななりゆきにも映ったからだ。

吃音症の女と脚を引き摺る男という、ハンディキャップを持つ者同士の関係に潜むある種の真理が、ある場面で残酷に暴露される。そこで吐かれる台詞は、リアリティ云々を別にすると、人間学としてまっとうだと思った。作者の人間観、世界観の成熟が、ああいった場面で腕を振るう。どの場面かは見てのお楽しみ、ということです。

吃音症のヒロインを、同「青春H」シリーズの『ゴーストキス』(いまおかしんじ監督)で華奢な女子高生を演じた白井みなみが懸命に演じている。頼りない裸身がみずみずしく、こう言っては何だけれど、ひどく地味な生活を送らざるをえない若い女性が、いざ行為に及ぶ際はきっとこうなんだろうな……と思わせるリアリティがあった。池にピラニアを放流し続ける、陰険なくせにどこか抜けている元高校教師役の吉岡睦雄さんが胸のすくような快演で、映画をぐいぐいと引っ張っていた。

『ピラニア』は12月18日〜ポレポレ東中野でレイトショー

http://www.artport.co.jp/movie/seishun-h/top/top.html
「青春H」公式サイト
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

『ヘヴンズ ストーリー』(瀬々敬久監督)

『ヘヴンズ ストーリー』(瀬々敬久監督)

殺人者によって妻子を殺害された男がいる。彼は収監された未成年の殺人者を、自らの手で必ず殺す、と記者会見の場で明言する。

その中継を見て、失禁する幼女がいる。彼女は両親と姉を父の会社の同僚によって殺された生き残りだ。だがその犯人は自殺を遂げ、彼女は怒りをぶつける対象を失っている。「犯人を殺す」と宣言した男は、彼女のヒーローとなる。自らの応報感情を全国民の前で正当化した男が、生きるよすがとなる。

彼女は成長し、ついにヒーローとめぐり会う。ある理由から、彼に肩車をしてもらうことになる。彼の後頭部が彼女の股間に触れる。その熱を感じ、彼女は深く目を閉じる。運命の歯車が回り始める――。


……という映画である。


見ながら、たとえば全ての作品で「神」を描き出すショーン・ペンの映画を彷彿としたし、アンゲロプロスやタルコフスキーの世界を想起したりもした。何より、瀬々敬久監督の集大成という側面もきっと大きいのだろう。

しかし本作品は映画的記憶や作家主義といった言葉に感応しがちな、いわゆる映画ファンに向けて作られているのではない。現在の日本社会、今生きているこの世の中へ向けて、大きな問いを訴えかける気概と迫力に満ちている。

4時間38分という尺は、確かに長編映画二本分、ピンク映画なら四本分であるからして、長尺であることにちがいない。90分からせいぜい160分といった一般的な映画の尺では、決して描ききれないものがあるのだ。尺のために犠牲にしてしまう要素がたくさんある。本作はそこを残らず拾い上げて物語に放り込む。一つの大きな主題を語る上で必要な、多彩な登場人物によって物語は重層的となり、一種の誠実さを帯びる。

では、手にした長尺という創作上の自由によって、その「大きな主題」が存分に語り尽くされたのか。たぶんそうではない。いかにその主題が「語りえないものなのか」が際立って明確になるのだ。語りえないことを証明するために、これだけの尺が必要とされた、と言い換えてもいい。「復讐の連鎖をいかに断ち切るか」などといった問いはここにはない。その過程と結果しかない。節々に配された西洋的な「神」のまなざしは、希望や救済のような気配を醸し出させはするけれど、そこにすべてが収斂されることはない。日本の「カミ」概念も人形を使って表現されるが、それはもう「語りえない」ことを強調するだけの不気味な記号だ。

描けば描くほど、すなわち、考えれば考えるほど、そこには「自然の摂理」だけが残される。

むろん、作り手によって登場人物たちは運命を翻弄され、葛藤し、ある者は死に、ある者は生き残る。それはもちろん虚構の枠組みでそうなっているわけだが、その実、どこかに「結局、こういう風にしかならない」という諦観がある。シニカルというよりは、即物的といっていい何かが。突き離されて描かれたわけではなく、人物たちに親密に寄り添えば寄り添うほど、世界の即物的なありようが露骨に見えてきてしまう。

ここに、拳銃を使って人々の復讐を代行する男が登場する。拳銃を使うというのは、日本映画においていかにも虚構である。だが人々が背負うべき罪を、人々の代わりに背負う彼が表象するのは何か。そして、なぜ彼が一人だけ、いかにも虚構らしい拳銃を手にして虚構らしい生を生きるのか。そこにちょっとしたヒントが隠されているような気がするけれど、それ以上のことは自分にはわからない。

いやもうはっきり言うと、こうやって作品の感想なんて書く必要なんてないのだ。見ている間に真実がある。そういう映画だから。見終わった後の何ともしれんもやもやした時間。そこに真実がある。自分はそういう風にしか言えない。

長谷川朝晴、忍成修吾、村上淳、菜葉菜といったメインキャストの熱演は、それだけで人間存在の熱を感じさせるわけだし、さらに復讐に生きる少女にしてファム・ファタールでもある寉岡萌希の瑞々しい演技には、性的な高揚すら誘われる。生きているだけで、そこには希望があり何らかの可能性がある、ということを全存在で証明してみせる俳優たちに拍手だ。

ことしの豊作たる日本映画の中でも、これだけのスケールで人間世界の業を抉った作品はないんじゃないでしょうか。必見です。
posted by minato at 15:54| 東京 ☁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

もりおか映画祭で『結び目』が上映!&『名前のない女たち』『島田陽子に逢いたい』の二作品がすばらしかった件について。

■10月24日に、もりおか映画祭で『結び目』が上映されます!

http://morioka-eigasai.jp/index.html

東北地方の方々、よろしければぜひともご覧くださいー!。

『結び目』はうちの母親も絶賛!


■最近見た二本の映画にとにかくガッツと感動を頂きました。

まず『名前のない女たち』(佐藤寿保監督)。
原作が大好きなんだけど、映画はノンフィクションという枠組みを破壊し、とてつもなくエネルギッシュに仕上がっていた。

映画作りというのはなあ、ガッツなんだよ、ガッツ!

そういう叫びが聞こえてきた気がした。
興奮状態で劇場を出てきましたよ。
主演の安井紀絵、佐久間麻由の二人に拍手喝采。

この二人が裸でビール掛け合うシーンに涙が込み上げて仕方なかった。


■『島田陽子に逢いたい』(いまおかしんじ監督)

これも必見!
俺、五回も泣いてしまった。
甲本雅裕、島田陽子、加賀美早紀らの芝居が実に沁みるのだ。
今週末までしかやらないので、是非見て下さい。

http://www.love-eros.net/

いやもう、はっきり言います。

近年のいまおかさんの中で最高の作品だと思います。


■以下のイベントに出演させていただきます。

肩身が狭いどころの騒ぎではなく、なんかもう場違い感が凄いのですが、頑張ります!

よろしければぜひ。


「映画一揆 井土紀州2010」公開記念トークイベント
映画の役目は終わった、のか?!@阿佐ヶ谷ロフト

●現在の日本映画シーンにおいて、映画を「作ること」「見せること」はどのような困難を抱え、そしてどのような可能性があるのか。
映画を発信する「メディア」と「作り手」それぞれの討議によって、「映画」の未来はいかにして可能かを問う。

開催日時:2010年11月9日(火)
OPEN:18:30 / START:19:00

第1部
「映画メディアは何を発信しているのか」
(出演者)
松井宏(nobody)
三浦哲哉(flower wild)
平嶋洋一(キネマ旬報)
佐野亨(INTRO/映画批評家)
藤原ちから(エクス・ポ)
千浦僚( a.k.a CHINGO! 映画感想家)

第2部
「映画を作り続けることは可能か」
(出演者)
井土紀州(脚本家・映画監督 『ラザロ』『行旅死亡人』『映画一揆』)
富田克也(映画監督 『国道20号線』『サウダーヂ』)
七里圭(映画監督 『眠り姫』『ホッテントットエプロンスケッチ』)
港岳彦(脚本家 『ちゃんこ』『イサク』『結び目』)
向井康介(脚本家 『リンダリンダリンダ』『神童』『色即ぜねれいしょん』)
松江哲明(映画監督 『童貞を。プロデュース』『あんにょん由美香』『ライブテープ』)
佐藤佐吉(脚本家・映画監督 『東京ゾンビ』『昆虫探偵ヨシダヨシミ』)

料金:前売り1300円/当日1500円(ドリンク別)
・ロフトAweb予約 http://www.loft-prj.co.jp/lofta/reservation/
・ロフトA電話予約 03-5929-3445(17:00〜24:00)
阿佐ヶ谷ロフト http://www.loft-prj.co.jp/lofta/


■こちらも波乱含みなメンツでございまして、不穏な空気が…いえいえ、こちらも是非よろしくお願いします!

11月17日(水)
『ベオグラード1999』公開記念パーティ

 【開場】19時 【イベント開始】20時〜

   第一部:『ベオグラード1999』予告編上映&トーク
   第二部:「2010年ベスト&ワースト映画と批評の現在」 

   当日のゲスト:わたなべりんたろう、山田広野、港岳彦、
モルモット吉田、若木康輔、千浦僚、金子遊ほかを予定
       司会:平澤竹識(「映画芸術」編集部)

※予約不要。チャージ無料/会場で前売券1枚(1300円)をなるべくご購入下さい

【場所】喫茶SMiLE 
東京都渋谷区宇田川町11−11柳光ビル3F  TEL : 03-6416-3998  
http://udagawasmile.blogspot.com/
posted by minato at 01:10| 東京 ☁| Comment(3) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

『映画時代』最新号と『十三人の刺客』『悪人』『犀の角』『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』

■相変わらずヘトヘトの毎日です。

■いつのまにか「映画時代」最新号が発売になっております!
すみません、わたくし前号に引き続き、今回もまったくタッチしていないので肩身が狭いのですが、興味を持った方がいましたらぜひ手に取ってみてください。詳細はこちら↓

http://eiga-jidai.seesaa.net/

■先日、ふらりと土浦や取手に行ってきたんですが、茨城っていいなあ。水の匂いがする。

■『十三人の刺客』(三池崇史監督)は大作としての腰を据えた演出に驚かされ、雄々しい役者陣の戦闘シーンに快哉を叫んだけれど、いちばん心に入ってきたのは、稲垣吾朗演じる暗殺のターゲットとなる殿様。彼のニヒルな世界観がいちいちしっくりきた。ここぞとばかりの熱い決戦のさなか、「一騎討ちとは風流じゃのう」とか言ってる。あの醒めた感じが、リアルだった。

■『悪人』(李相日監督)は原作も読んでいたけれど、予告編の深津絵里にひどく心奪われてしまい、予告編を見るたびに目頭が熱くなっていた。理由はわからない。で、本編を見て、やっぱり彼女にイカレてしまった。九州の片田舎で暮らす寂しい三十路の女、光代。そのソバカスの浮いた顔、涙、喜びに震える表情のすべてに魅入られた。ラストシーンのうっすら涙を浮かべた笑顔は、思い出すたびに泣けてくる……完全に惚れました。スクリーンの女性に惚れたのは本当に久しぶりです。

■『犀の角』(井土紀州監督)。今度の「映画一揆」で上映される作品で、映画学校の卒業制作なんだけれども、卒業制作とかまるっきり関係がない仕上がり。オウムを模した新興宗教団体に属する少女と、臆病な少年との儚い恋を凝視した作品で、追い詰められた者同士の一瞬の繋がりを描いている。朴訥な顔をした主演の二人が実に頼りない佇まいをしており、それが暗い青春を送らざるを得ない「片隅の人々」の匂いをリアルに醸しだしていた。

■『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(石井隆監督)。あの傑作『ヌードの夜』から17年後の続編は、”ネオ・ハードボイルド”ならぬ”ノワール・アート”だった! 暴走する美意識が、お話も、キャラクターも、映画という枠組みさえも、すべてを凌駕する。不幸な生い立ちの女に同情し、深入りしたがために身を滅ぼすのは男のロマン……『ヌードの夜』はそうした性質をもった作品だったけれど、今作はロマンをせせら笑う「悪い女たち」が手ぐすね引いて紅次郎を待ちかまえているのだ。 さらに深く過激な世界に踏み込んだ石井隆、万歳!!!
posted by minato at 01:27| 東京 🌁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

『月あかりの下で』(太田直子監督)

『月あかりの下で』(太田直子監督)

ポレポレ東中野で『月あかりの下で ある定時制高校の記憶』(太田直子監督)というドキュメンタリー映画が公開されている。浦和商業定時制課程という夜間の定時制高校のあるクラスを追いかけた四年間の記録。

とても良かった。

見ている間中、何度も目頭の熱くなる瞬間が訪れ、しばしば、堪えることが出来ずに泣いてしまった。学園ドラマに起きるようなエピソードは、あらかた起きてしまう。だがそれがナマである分、感動もひとしおなのだ。

三十数名いる生徒のうち、数名の少女にスポットを当て、彼女たちが孤独に佇んだり、先生と対立して怒鳴ったり、仲間内で喧嘩したり、恋人を作ったり、別れたり、明るい笑顔とは裏腹に自傷行為に走ったり、痛々しく悩み、痛々しく居場所を求める姿が活写されている。そして時には力を合わせてもめごとを解決したり、友情をはぐくんだりもするのだ。

キャメラは教室に重点を置き、生徒それぞれの家庭には立ち入ろうとしない。出来ない、という事情もあるのだろうが、一貫して「学校」や学校行事に焦点を絞っているため、見ていて、わが高校時代にタイムスリップするようだった。ま、おいらは薄汚い男子校ですけどね。

担任教師も主人公の一人だが、これが実にいい男なのだ。なんせ人間としての迫力があり、気概があり、肝が据わっている。でも、時にはへそ曲げて授業を放棄したり、進級出来ない生徒が出そうになって皆の前で泣いたりする。先生がへそを曲げた時の気まずい雰囲気、先生が泣いた時の胸の痛み。自分自身が経験してきた、学校生活におけるあの空気がまざまざとそこに再現されていた。ああいうシチュエーションって、いつの世も変わらずあるのだな。

時が流れ、イヌやネコのようだった生徒たちもやがて大人になっていく。それぞれの道を選択する。どの生き方が正解とも言えない。しかし、家庭や普通の学校に行き場を失い、夜間学校にようやく居場所を見つけた彼らは、少なくとも、人として生きて行く上で大切な何かを学び、社会へ巣立ったのである。その力強さがしっかりと伝わって来る。

卒業後三年経った彼女らにキャメラを向けると、不思議とよそよそしく映る。いま、彼女たちはキャメラではなく前を向いて生きている。二十歳を超えたら誰だってそうなる。もう、先生も監督も手の届かないところにいる。監督が感じたであろうその一抹の寂しさを、観客である自分も、少しだけ共有したような気がした。

あの痛々しい日々でさえも、思春期の輝きだったのである。

ポレポレ東中野で9月17日まで公開された後、18日からは下北沢のトリウッドで上映予定。

http://tsuki-akari.com/

posted by minato at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月01日

「月刊シナリオ」10月号に『結び目』&作者ノート掲載! と、『インセプション』を見てきたよ

明日か明後日発売の「月刊シナリオ」10月号に、『結び目』の脚本と作者ノートが掲載されます。映画を見て気になっている方、あるいは見てないけど読んでみたい方、是非手にとってみてください。作者ノートもお楽しみに。

また「創り手たちの映画評」でみたび『結び目』が話題になっております。荒井晴彦さんが批判! ギャーッ。今回のこの連載、色々興味深い話題が多いので、こちらも是非読んでみてください。

昨夜は『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督)を見てきたですよ。えれえ面白かったですよ。夢のまた夢、みたいな劇構造もさることながら、若手俳優の存在が瑞々しくて、それが良かった。ジョセフ・ゴードン=レビット、トム・ハーディ、エレン・ペイジ。みんな良かった。夢の女=悪女を演じるマリオン・コティヤールも、少しトウの立った感じが色っぽくて良かったなあ。アクション場面は個人的にそれほど印象に残らなかったけど、無重力のシークエンスは最高だった。あれだけ小一時間見ててもよいくらい。人間が何体もぐるぐる巻きにされてプカーッって浮いてる感覚、あれ、いいなあ。書いてるうちにまた見に行きたくなってきた。

何度も見たくなる映画はいい映画。
posted by minato at 19:25| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

『アウトレイジ』(北野武監督)二回目

『アウトレイジ』(北野武監督)二回目。

スコセッシの『ディパーテッド』を劇場で見た時、あまりに駄目な映画だと思えて(オリジナルが傑作だけになおさら)、暗澹たる気持ちになったのだった。でもDVDで二度三度見直すうち、これがすごく面白くなっていくのだよ。ホントに。ある種の映画は、体内に沁み込ませると見え方が違ってくる。

『アウトレイジ』初見の印象は、前に書いたとおり。空っぽの映画だという感想以外何も浮かばなかった。想像した映画とえらく違ったからだ。あの予告編で最高潮に盛り上がった気持ちが、急速に冷えていった。ちっともドキドキしない。それどころか、何のエモーションも熾させないまま話は進み、安手のオチを用意して、終わる。しかし、それは決してネガティブな意味合いではないのだ。たとえようもない不思議な感触が残って、なかなか頭から離れないのである。参考までに色んな人の意見も見たり聞いたりしたけど、ピンとくるものはなかった。

というわけで二回目観賞。

やはり空っぽの映画だった。しかし冷静に見ていくと、むしろこれはとても「さみしい映画」なのだ。細かいことは色々言えるけど、これは細部よりも総体で捉えるべき、語るべき映画のような気がする。かつては暴力が起きる瞬間の切れ味に冴えを見せていた監督だったが、今回、暴力シーンの列挙で成り立っているにもかかわらず、ほとんどの場合、それは脳裏に強く焼きつけられるというよりは、あっけなく消費されていくものばかり。だがエンドロールが流れる頃には、その総体がやけにさびしく心に残影を刻むのである。

ある人物の凄惨な死にざまが、この映画のピークだ。作家の刻印ってやつ。あのショット、どうやったらあんなに神がかり的な構図に収まるのだろう。あのショットだけのために何度でも劇場に通いたくなる。ネタバレ気味に書くと、水野という登場人物の死に方なんだけどさ。死んで、その後に続く2つのカットがすごくいいのだよ。

それから、終盤の海辺でのバーベキュー。あのシーンはなんであんなにすばらしいんだ。なんであんなに忘れがたいんだ。その後、ある場所でポカーンと映し出される青空……。

これはとても静かな映画だと思う。『あの夏、いちばん静かな海』が手ごたえとしていちばん近い……と思うのは希少意見だろうか。

現在の北野武の境地がいったいどのようなものなのか、俺にはさっぱりわからない。しかしこれは日本映画史においてとても重要な一作になるんじゃないか。いや、日本映画史と言わず、自分の中の個人的な映画史において。根拠はないがそんな気がする。
posted by minato at 00:55| 東京 ☔| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

『アヒルの子』(小野さやか監督)『LINE』(小谷忠典監督)

『アヒルの子』(小野さやか監督)

極私的に作られた映画は、強く響くか、まったく響かないかのどちらなのかもしれない。その意味で、『アヒルの子』は「家族」の暗部をえぐり出すことで多くの者に鮮烈な衝撃を与える普遍性を持ちながら、かつ、俺個人に強く響いた作品だった。ことしは上半期、色々映画を見たけれど、今のところこれに勝る作品には出会っていない。

セルフドキュメンタリーはその赤裸々な性質において、ある程度の衝撃を与えるのが当たり前、のような印象を持っているけれど、この作品は良く出来た成長物語、虚構のドラマのような構造を有していて、しかも、「人間を描く」上で必要不可欠な、人間の非合理的な衝動や行動、性や共同体の問題をまっすぐに見据え、活写している。

ただ……映画館で上映されている映画に対して、別段配慮するというわけではないけれど、俺はその中身をあまりネット上に書きたくないのだ。

大雑把に、監督の二人の兄に対する憎しみと恋慕、姉との憎しみ、父と母への憎しみ、そして甘えがある。やがて後半は五歳の時一年間預けられていたヤマギシ会と、その施設の同級生をめぐる旅に転じていく。これらの要素の一つ一つ、そこに向き合っていく彼女と、事態に直面した人々の対応、そのいちいちに震えが走った。

それは、共鳴だったり、驚きだったり、感心だったりするのだが、総じて言えるのは、本作が小野さやかという監督が主役を演じる鮮烈な女性映画だということである。この人が出演時間の半分以上泣いているのである。ぐずぐずと鼻水たらして、みっともなく泣いているのだ。むき出しになった自我が、平穏に見える家庭の秘密を暴露し、家族の動揺と破壊を誘う。涙の破壊力である。

その着地点に若干の不満はあるけれど、少なくとも映画はいつか終わらなければならないので、暫定的な結末としてこれはこれで良いのだと思う。また、ヤマギシ会での一年間の記憶を共有する子どもたちが、成人女性となって次々現われてくるあたり、俺はすごく美しいものを感じてしまったのだ。ちょっと筆舌に尽くせない何かを感じたのだ。

特筆しておきたいことがある。カメラの前で素っ裸になってしまう小野監督もさることながら、撮影を引きうけ、上映を許諾した彼女の家族たち。ここに描かれているような事柄を他者の目に触れることを認可した家族たち。彼らのその「許す」という行為自体に、俺は人間の尊厳を見た。気高さを思った。これは人間存在に希望を見いだすことが出来る映画なのだ。

……ああ、ここまで書いてきてわかった。これ、ベルイマンの映画を見ている時と同じような感動があるんだ。


『LINE』(小谷忠典監督)

こちらは打って変わって内省と詩情の私映画。小谷監督自身画面に登場するのだが、色っぽい男なのである。どちらかと言えば女性に近い雰囲気を持っており、限りない優しさと繊細さをその身にまとわせているのである。

かつてノックアウト強盗によって生死の境をさまよい、今ではすっかり飲んだくれと化している父親との暮らしぶりが黙々と映し出されるが、その絵姿から、父と息子の歴史が濃密に匂ってくる。街の空気が漂っている。寡黙で説明を排した作品だが、豊かなイマジネーションがある。そうしたスタイルを選択した以上、撮影・録音といった技術には、深い安定感が必要になるはずだが、ちょっと惜しい部分がいくつかあった。

監督はコザへ行き、売春婦たちの裸体を次々と映し出す。「美しい」とされるような裸は一切出てこない。やせぎすだったり、太っていたり、傷跡があったり、入れ墨があったり。美術を学んだという、涙が出るほど優しい笑顔を浮かべる女もいれば、次々とわいせつなポーズを取っては、しだいに肉欲を高め、監督に向かって「わたし濡れてきたのよ?」と切なく訴える中年女もいる。しかし監督は彼女らを抱く事が出来ない。春をひさぐ女性の裸に対峙した時に、欲望ではなく悲しみを見いだしてしまう感性の監督だからである。個人的には、そこにぐっと胸に迫るものを感じた。

何一つドラマティックな事件は起きないし、監督は何かを変えようともしない。あるがままを淡々と映し、ミシンを踏み、皿を洗い、子どもと遊ぶ。日常そのものをじっと凝視することで、そこから立ち上ってくる何かを表現しようとしている。これは詩心を持つ男の映画である。

真先に思い出したのが、じつはつげ義春の世界だった。

見るのが遅きに失したが、二本とも、ポレポレ東中野で今週金曜日までやっています。見た方がいいです、ほんとに!
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月15日

小生のインタビュー&コラム記事掲載情報と『やくたたず』(三宅唱監督)がすごかった件


日本映画学校の週間コラムに寄稿しました。よろしかったらどうぞ!

http://blog.livedoor.jp/nihon_eiga/

それとINTROにわたくしのインタビューが掲載されました。

http://intro.ne.jp/contents/2010/06/15_0534.html

いや俺が「してくれ!」って頼んだわけじゃないよ、本当に。宣伝の方から「INTROから取材です」と言われて「え!?」と吃驚したんだから。

ちなみこちらのインタビューはフリーペーパー「人のレビューを笑うな」との連動企画で、6月下旬発行予定のVol.3にも掲載される予定です。


で。


このところ夜な夜なシネマロサで開催されているco2in東京に通っているんですが、その中で、『やくたたず』(三宅唱監督)は凄かった。凄い、といっても、たとえば衝撃の結末があるとか、生々しい暴力衝動が叩きつけられているとか、その類ではなく、その聡明さに軽くショックを受けた。

雪の北海道で高校生の三人組が防犯会社のバイトをするってだけの映画。それだけ。犯罪ドラマに発展するかと思いきやそれもないし、というか、ドラマ自体がほとんどない。あるのはエピソードと瞬間だけ。「演出の余地」ってもの、それだけで成り立っている。日常そのもののような行動や表情や言葉やありふれた出来事だけで成り立っている。かといって、俗に言うドキュメントタッチの撮影ではない。映画演出そのもののような生命力。

まっとうな映画青年は、語り口について割と深く考える傾向にあると思うんですが、その手つきが透けて見えるとホントに萎える。スクリーンから「映画について考えてるボク」みたいな顔がちらついて嫌になっちゃう。自分の好みとしては。

その意味で、まず作者の自意識や顔なんてものをこの映画は見せない。雪、モノクロ、いい面構えの役者たち。撮影に入る前の準備が実に周到で、いくつかの要素を持ち込み、オレの撮影・演出・編集の力量をもってすれば、確実に映画的躍動感に満ちた傑作になるぜ、という不遜な確信は見える。その確信がともすると強烈な自負心となって透けて見えるきらいがなくもないけれど、やっぱりそれが出来ること自体が凄いと思う。色々な映画の方法論を参照したかもしれないのに、それを見せないところ。映画愛を押しつけてこないところも好感度大です。俺なんかからするとこれは新鮮きわまりない代物でした。

まあ、本当は「世界観」に今以上の観念や知性をみなぎらせれば(いわゆる“物語”を作るということでは決してない)、もっと広く受け入れられるような、わかりやすい映画になるかもしれないけど、現時点ではこれで充分だという気がする。技術的に色々欠点がないわけではないけれど、それも本質的な問題ではない。どうせうまくなる。それ以上に、ミステイクは監督自身がきっとわかっている。それくらいの聡明さがある気がします。

そんなわけで、『やくたたず』、上映される機会があったらぜひ見てほしいです。

最近見た中で自分が強い刺激を受けたのは、亀井さんの『ねこタクシー』と『やくたたず』です。まったく性格の違う映画だけど、その「地に足をつけた」感じ、透徹した何かを漂わせる感じ、何をやるかでなく、何をやらないかという命題を、自分達なりの誠意で取り組んだ姿勢から、何か打たれるものを感じました。

というわけで今日こそ『アウトレイジ』見に行くぞバカヤロウ!
なんか日本映画が楽しいことになってきてるぞコノヤロウ!
posted by minato at 06:24| 東京 🌁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

『ねこタクシー』(亀井亨監督)

『ねこタクシー』(亀井亨監督)

一緒に仕事をさせて頂いた監督の新作について俺が書くのはどうかな、という思いもあるんだけど、非常に印象深い映画だったし、そもそも仕事する以前は単なるファンだったこともあって、やはり少しだけ書いておきたいと思う。

元教師で、今はタクシードライバーをしている間瀬垣(カンニング竹山)。会社での営業成績はビリで、妻(鶴田真由)や娘(山下リオ)との関係もうまくいっているとはいいがたい。彼は人づきあいが苦手で教師を辞めたのだが、タクシードライバーも結局はサービス業、てんで向いてはいなかったのだ。そんなある日、彼は公園で御子神という名札を下げた三毛猫を拾う。御子神を助手席に乗せて走ると、招き猫よろしく、驚くように営業成績が上がっていくのだった。

……というストーリーラインなんだけど、これがもう、びっくりするくらい淡々と進んでいくのだ。まるで小津の映画みたいだった。現実世界に対する即し方が。嘘をつかない、というハナシの転がし方が。

映画において「嘘をつかない」というのは、おおざっぱに言って、「映画という虚構」に寄りかからない、そこに安直に身をゆだねて物語を作らない、ということ。だからこの映画は「猫をタクシーに乗せての営業って大丈夫なの?」という、観客の素朴な疑問に答える形でドラマを進めていく。ドラマティックな展開も派手な事件もない。ありふれた虚構のかわりにありふれた現実がある。主人公が直面する現実の強さがじわじわと見る者を侵食してゆく。

『幼獣マメシバ』が佐藤二朗の神経質なセリフ芸(スリング・ブレイド芸とも言う)でひたすら笑いを誘うというフォルムのファンタジーであったのに対し、こちらはコメディアンであるカンニング竹山の持つ、哀愁や重さや人間くささを丁寧に抽出することにすべてを賭けている。間瀬垣という冴えない中年男の、地味でつつましい心の旅に、見る者は静かに寄り沿うことになる。奇跡なんて起きない。地道な描写の積み重ねだけがそこにある。現実世界がそうであるように。これはもう、はっきりと大人の映画です。

見てから一日たって、じわじわきてます……。

6月12日より公開
http://www.nekotaku.info/movie/
「ねこタクシー」公式サイト

あ、言うまでもなく猫好きの方々のニーズには思いっきり応えております。御子神さんがねえ……常に舌を出してるわけですよ。

……超カワイイ。


話は変わりますが、『結び目』がシネマトゥデイ様にご紹介頂けました。感謝です!

http://www.cinematoday.jp/page/N0024476

posted by minato at 16:41| 東京 ☁| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月14日

色々見たよ

すっかりご無沙汰しております。

最近はある映画のシナリオにかかりきりでございまして、しかも初挑戦のジャンルでありまして、日夜、あーでもないこーでもないと呻吟しております。ありがたいことです。

いろいろ映画も見ましたよ。

石井裕也監督の『川の底からこんにちは』、すばらしかった。

満島ひかりが。

基本的にはテンションの低いキャラなれど、芝居には熱いエネルギーが漲っていて、しかも単調に陥らない技術を兼ね備えている。そんな演技を最初から最後までキッチリ見せられたら、そりゃもう惚れますわ。この満島ひかりはどんなに称賛を浴びても浴びすぎることはない、と思います。

それから吉田浩太監督の『ユリ子のアロマ』。こちらも江口のりこが持ち前の生々しい存在感を存分に発揮していて、みとれました。フェチと性欲が結託するへんちくりんなラブストーリーなんですが、人間が欲望を貫くときのみじめさやずるさをちゃんと捉えていました。「アロマ」をモチーフにしたドラマに呼応するが如き、独特の映像美が見どころで、最後にはなんだか良い気持になって劇場を出ることができるという……。好きな作品です。

あ、あとはリチャード・ケリーの『運命のボタン』。いや俺好きですよ。擁護しますよ。でも議論はしません。すぐ負けるから。褒める根拠ないし。ないけど好き。

あ、そうだ!

NHKドラマ『その街のこども』がすばらしかったのだった。
うむ、これはほんとに良かったな……。
なんか、語りたくない感じの良さなのだった。

さてさて『結び目』も来月には公開。
試写も残すところあと一回。

http://musubime.amumo.jp/

忙しくなってまいりました。
posted by minato at 22:47| 東京 ☁| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月15日

『シャッターアイランド』(マーティン・スコセッシ監督)

『シャッターアイランド』(マーティン・スコセッシ監督)

思い入れの深い映画作家が、「ハリウッド大作」の名のもとに匿名の海へ埋没していくのを見るのは辛い。いや、これだって「スコセッシならでは」の映画ではあるのだ。見た人ならわかるだろうけど。

彼はごく大雑把に言って「ビョーキの人」ばかり描いてきたわけだ。ビョーキの人ばかりが収容された施設の島が舞台の映画なんだから、あるいは舌舐めずりして撮ったのかもしれない。でもとにかく俺にはそんなふうに見えなかったし、ちっとも生き生きした感じがしなかった。スクリーンを通して、文字を読まされてる気分だった。

だからと言って「クソ映画」だのなんだのと貶すつもりは毛頭ない。脚本の緻密さはさすがだ。デニス・ルヘインの原作もきっといいのだろう。前半はほんとに引き込まれた。幾重にも編み込まれたプロット。時代背景を巧みに織り込んだ複雑な人物造形。衝撃の結末云々という愚かしい宣伝文句に踊らされなければ、ホントによく出来たシナリオだと思う。

その辺の未熟な監督には、こんなふうに安定したタッチで映画を撮れないだろうし、キャストだっていい。ディカプリオはやや単調だけど、『コラテラル』以来大好きなマーク・ラファロが相変わらずいい味出してるし、マックス・フォン・シドーなんてまだ現役というのが凄いじゃないか。

でもなあ。「あんまり気乗りしないけど……」と言いつつ、『ケープ・フィアー』を撮ったじゃないか。「撮りたくなかった!」と弁解しつつ、『ディパーテッド』を撮ったじゃないか。『シャッターアイランド』を、俺はつまらない映画だとは思わない。むしろたいした映画だと思う。でも、スコセッシの映画を見たかった。ギミーシェルターやマニッシュ・ボーイがガンガン流れる映画を見たかった。ヒッチコックへの礼節として「ここぞ」というところで360度パンを行使しようがしまいが、そんなんどうだっていいじゃないか。

この脚本はむしろデヴィッド・フィンチャーのほうがよほど魅力のある映画にしたんじゃないかなんて思ってしまったよ。

あと、これは単なるスリラーというよりも、50年代のアメリカについての映画なんだろうな、とも思った。その歴史や文化を肌感覚で共有していないと、俺にはちょっと理解しづらい要素が多すぎる気もするよ。わかんないけど。

ともあれ、早く『沈黙』見たいぞ。「俺がマーティン・スコセッシだ!」と強烈にアピールするような映画を早く見たいよ、マーティン。「作家性」ってやつを最初に教えてくれた映画監督なんだよ、あんたは!
posted by minato at 00:00| 東京 ☁| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月13日

『あの日、欲望の大地で』(ギジェルモ・アリアガ監督)『エレクション 死の報復』(ジョニー・トー監督)

『あの日、欲望の大地で』(ギジェルモ・アリアガ監督)

好みだったなぁ。大好きな映画。

誰とでも寝てしまう女(シャーリーズ・セロン)。彼女の前に、ある日、一人のメキシコ人と少女が現れる。それはヒロインの過去に深いかかわりを持つ人物々であった。彼女の母親(キム・ベイシンガー)は、夫がいる身でありながら、ある男と不倫関係に溺れていたのだ……。

『21グラム』なんかの脚本を書いていた人のデビュー作らしく、時系列がバラバラなんだけど、この手の手法がしっくりなじんでる。そういう風に語ることが、このドラマにおいては不可欠となっている。

シャーリーズ・セロンが抜群の安定感。まったく的を外さない演技。キム・ベイシンガーも、ただ単に不倫に溺れているのではなく、それなりの理由があったりして……。「傷跡」というモチーフの扱いにしても、贖罪、あるいは告白というポイントにしても、背景にカトリック文化を強く感じさせるんだけど、そういう抹香臭いものは表にはまったく出てこない。

こういう”ふしだら”な女の話は、男女問わず「共感出来ない」と言い出すひとが一定数必ずいると思うけど、ごめん、俺はたまらなく感情移入して見てしまった。マグダラのマリアは永遠のテーマ。

日常があり、性愛があり、背徳があって、罪が犯され、贖罪と告白の機会が訪れる。それを女の物語として構築しているからたまらない。もうね、男なんて女のドラマを語るための道具でええんや! 添えものでええんや!

そしてロバート・エルスウィットの撮影、ほんと好きだなぁ。しっくりくる。


続いて、『エレクション 死の報復』(ジョニー・トー監督)。

……前言撤回。女は男の添えものでええんや!

だって男だらけの本作があまりにもすばらしかったから。

香港マフィアは二年に一度の選挙で会長を決める……というのが、ほんとかどうかは知らないけど、最悪の後味を残す前作の結末から二年後、ふたたび黒社会の選挙の季節が訪れるわけだ。前作に引き続き、銃弾が発射されないアクションに特化していて、残酷描写はさらに過激に。世界観も一切の容赦がなくどこまでも非情。最高級に殺伐とした気分を味わわせてくれる。この人ここで死んじゃうんだ!? みたいなスリルと驚きが満載。

基本的に残酷描写が大嫌いで、それゆえにホラー映画、スラッシャーが好きでないんだけど、見せ方の問題なのね、とこれ見て気づいた。ひとつひとつのシークエンスの作り込みが丁寧で、音楽よりも無音や生活音がその場の空気をじわじわと燻るように表現している。とにかく大満足しました。

『インファナル・アフェア』のパート2を急激に見たくなったなぁ。当方、この手の、義理も人情もない漆黒の世界にヒジョーに弱いです。
posted by minato at 22:06| 東京 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。