2009年03月23日

2008年ピンク大賞決まる

2008年度のピンク大賞が発表になった。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~p-g/best10/2008.htm

池島ゆたか監督の101作目『next』(超いんらん やればやるほどいい気持)が主要部門を独占の勢い。まずはおめでとうございます! さすがでございます。この作品でいちばん好きなのは、青山えりなとの貧しい劇団生活を描いたパート。あのつつましい青春模様。痛すぎるんだけど、すんごくみずみずしい。何はともあれ良かったです。去年のピンクのマイベストは『小鳥の水浴』(半熟売春 糸ひく愛汁)なんだけど、こちらも4位のランクイン。意外だったのは渡辺護監督の新作が入っていないこと。いや、俺も好き嫌いで言えばあんまり好きなタイプの映画じゃなかったけど、相当出来の良い映画だと思ったのになぁ。あと、個人的には倖田李梨先生の女優賞が嬉しかったです。国映勢が一つも入ってないのはなんかさみしい。来年はぜひ我らが吉沢さんに新人賞を……。

映画時代創刊準備号には『next』『小鳥の水浴』および池島監督が映画監督になるまでを語っていただいた超ロングインタビューが掲載されている。それはまさに『next』で描かれた青春模様そのもの。会場での販売が許されるとしたら記念に再版したい気もするなぁ。リクエストも結構きてるし。……ってまだ会場決まっていないらしい。新文芸座が使えないとのこと。どうなることやら。
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2009年03月08日

『ライブテープ』(松江哲明監督)

『ライブテープ』(松江哲明監督)

池袋シネマロサでの試写会。23時スタートの試写って初めて。おおぜいの人々が集っている。日曜日の深夜に池袋に来て映画を見ても大丈夫な人たちが。

前野健太というシンガーの映画かと思ったら、2009年1月1日の、陽が沈む直前の、その時間にしか存在しない、切り取ることのできない光と、吉祥寺という町、そして確かに同じ元旦を迎えた、おれたちわたしたちの映画だった。さらには「ドキュメント作品」が生成されていくことについてのドキュメントだった。キャメラマンがアングルやサイズを決めたり、何かを探し求めていく息遣いがいっさいカットを割らずに映し出されていた。演出家の演出も、被写体の冷えや照れや疲れや何もかもぜんぶが、率直に映し出されていた。お正月を楽しむ子どもたちがたくさん映っていた。いけすかないカップルが映っていた。彼らは皆、大いなる肯定の視線の中にたたずんでいた。

録音、調音、近藤龍人のキャメラ。すばらしい仕事ぶりだと思う。元旦の夕景にはポエジーがある。誰もが知っているそんなことをきっちり作品化するということ。作品を「構成する」ということ。先入観なしに見た方がいいんで、あんま詳しく書かないけど、音楽の人ではなく映画の人の「仕掛け」のあり方。そのさじ加減。……もう敬服ですわ。

「いいものを見た……」という大いなる満足感の後、むくむくと嫉妬の気持ちが湧き上がってきて困った。椎名町で肉ソバをもりもり喰った。もりもりと仕事をしたくなった。

明かに、劇場で見るべき作品であると思う。できれば年内に。ことしの始まりの記憶を蘇らせながら見るってとても愉快な経験だった。前野健太が吉祥寺の商店街をギター掻きならしながら練り歩いているとき、おいらは雪降る愛知県の神社で初詣してた。おみくじをひいた。

末吉だった。
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2009年01月23日

『岡山の娘』(福間健二監督)

黄金町シネマジャック&ベティで『岡山の娘』(福間健二監督)の最終日に駆け付ける。ポレポレでのオールナイトを見てから、シナリオでどうしようもなく行き詰って「ピンク・ヌーベルヴァーグ」の文章とにらめっこしたり、イサク初号でご感想を伺ったりして、少しずつご縁が近づいてきた感じ。こういうの面白いなぁ。縁と言えば、劇場でばったりDVU氏と遭遇。以前もどっかのイベントで遭遇したなぁ。まぼろしのエイゲイ座談会で微妙にギクシャクした関係を演出したことが、今では懐かしい。彼とはいずれ恋に落ちそうな気がする。

『岡山の娘』は蛇口から水がドドドと迸ってバケツを一杯に満たしたような映画だった。テキストと映像の惜しみなき情報量、語りのスピード、最初から最後まで一貫する映像の清冽な感触。舞台は岡山なれど、その特色の表出に心を砕く野暮は避け、日本全国どこでもこうだと思わせる画一化された街並みをまんま受け入れている。それにより、世界に広がりが出来ている。自分探しのさなかにあるヒロインと、スペインを放浪していた彼女の父親との葛藤が主軸だが、深刻趣味に陥らず、軽やかに、自然体で、散文というより、文学なるものの重力から浮遊した軽い詩のタッチで、最後の最後まで語り抜いていく。

ゴダールの絶大な影響下にありながら、いやー、どう考えてもエリック・ロメールだなと思った。若い娘に対するまなざしがなんといってもそう。きれいなエロスというか、嫌味、臭み、観念、そうしたものから解き放たれた自由なまなざし。そのテンションがずっと持続して途切れない。一年に一度はこういうスタイルの映画を見て、「映画は自由なんだ」ということに思いを至らせるべきだと思いました。連作にしてあちこちの「娘」を撮ってほしいくらいです。面白かった。

上映後、DVU氏とともにジャック&ベティの隣にある中華料理「聚香園」にお誘いいただき、監督チームの打ち上げにお邪魔する。喰いたかったんだよなぁ、「聚香園」。評判通りうまかった。「岡山の娘」の話もさることながら、90年代、四天王時代のピンク映画の宣教師である福間氏なので、いろいろと興味深いお話を伺う。映画やら文学やら話も大いに盛り上がって二次会。近くの中華「松林」。深夜帰宅。黄金町を味わう。「売春飲食店を撲滅せよ」というすごいスローガンが普通にあったなぁ。おかげさまで、体調不良もかなり好転した気がする。
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2009年01月22日

『サイタマノラッパー』(入江悠監督)

苦心の末、やっとホン仕上げる。送る。へなへなと崩れる。直後、別件シナリオにゴーサイン出る。ここまで来るのに相当しんどい思いをした。嬉しいけどプレッシャー。とたんに胃がキリキリ痛くなる。また時間に追われる日々。

『サイタマノラッパー』(入江悠監督)。

埼玉県深谷市在住のデブでニートなラッパー(志望)の若者と、その仲間たちの冴えない日常を描いている。

いい映画だと思った。

ヒップホップを愛し、ラッパーになることを夢見る男の、その背景にきちんとまなざしを注いでいた。『ロッキー』はボクシングそのものを描いた映画ではなく、ボクシングをしたい、せざるをえない人間を描いているから名作たり得ている。それと同じ意味で、切実さは不足しているけれど、どうしようもなくヒップホップが好きなんだ、やりたいんだという彼の気持ちとそのダメな「生」の感じだけはちゃんと伝わってきた。

個人的にはN.W.Aやウータン・クランの日本版みたいな、どっぷりアングラに浸かったどす黒い不良たちの映画を見たかったし、トラックにしてもここまできれいにまとまったものでなく、オールドスクールのシンプルで安っぽい響きを期待していたんだけれど、それでも現在の彼らにはこういうヒップホップが、こういう音が享受されているんだという意味での説得力はあった。

特に、要請されて市役所でラップを披露し、質問攻めにあう場面がケッサク。ゲラゲラ笑った。

ただ文句もないわけではなくて。クライマックスは確かに胸に迫るとてもいいシーンになっている。けれど、一度は日の目を見た者同士の再会ならまだしも、そうでない者同士が、意に添わぬ仕事をしていて偶然再会するシチュエーションには、これといったドラマ性がないと思う。ニートの人ははたらくことを惨めなことと思っておるのか。「8mile」のいちばんいいシーンは、ラップ対決に勝利したエミネムが、「仕事に戻る」という場面だった。底辺労働に従事しながら夢を追うのが当たり前、という部分に深く共感したし、カッコええなぁと思った。おいらフリーター歴の長いおじさんなので、働かない奴に対しては基本的に冷たいのだ。

でも落合フクシくんにも似た駒木根隆介の熱演には思わずグッと胸が詰まりました。他にもダメな近田春夫みたいな水沢伸吾、軽薄を絵に描いたような奥野瑛太、口は悪いが繊細な女・みひろといったメインキャストの面々にいちいち魅力があった。実在感があった。同じ音楽映画でも、『リンダ・リンダ・リンダ』よりはるかにシンパシーを感じたなぁ。

http://sr-movie.com/
(公式サイト)

池袋シネマロサで3.14よりレイトショー。

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2008年12月09日

『ポコァポコ 泣いて笑って涙して』『わかりあえる季節<とき>』(山下耕作監督)

朝起きて『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』最後まで。ある種の定型をベースとしながらも、そこからどこまでも独創的であろうとするインディペンデント精神に喝采。今年、これくらい刺激的な映画ってないわ。

1、映画の醍醐味はシーンである。
2、シーンを成り立たせるのは人物の感情でありアクションである。

……という単純なドグマを、スコセッシやカサヴェテスやジャームッシュやアルトマンやマメットに教わった人の映画。ショット? シーンの一構成要素に過ぎない。全体的なドラマ? そんなもんはシーンに貢献するために存在する! ……極端な話、そんな風に作られた気がするなぁ。

デビュー作『ハードエイト』は面白く見たけど、それに続く二作がどうしようもなく嫌いなのは、先人たちの手法や形式の模倣があまりにも目立ちすぎているから。それがイイって人もいるけど、俺はだめだ。『ゼア〜』では手法や形式が後回しにされ、もっと監督自身、人間自身に立ち返って映画制作と向き合っているような気がする。ST監督の「ジャンルに負けない」「映画はキャラクターしか残らない」という哲学に通じる部分がある。ジャームッシュの言う、「物語にキャラクターが貢献するのではなく、キャラクターが物語を作っていく」映画作りというか。ジャームッシュのその言葉、むかしノートに書きつけてた。今頃になってその価値を深く認識。結局、映ってるのは人間なんだもんなぁ。シンプルな信条ほど強いものはない。


ジョギング。公園で銀杏ひろい集めてるおばちゃんが、連れのおばちゃんに「これは風の置き土産だから」と言ってた。

茶漬け喰ってラピュタへゴー。

『ポコァポコ 泣いて笑って涙して』『わかりあえる季節<とき>』(どちらも山下耕作監督)。

二本ともいわゆる「教育映画」。『ポコァポコ 泣いて笑って涙して』は「映画時代」のオギさんの文章でほぼ言いつくされてる感があるんだけど、とても良い映画だった。

小児麻痺の車椅子の女性が、空き缶を拾った金で老人ホームに車椅子をプレゼントする、という実話がベース。彼女が始めたささやかなことがどんどん広がりを見せて、中学校や市民を巻き込んでの運動に発展していく。蒔かれた種が発芽し、花を咲かせ、実をつけるまでの物語がテンポよく描かれ、その合間に情感たっぷりのエピソードが挿入される。正直、何度も涙腺が緩んだ。教育映画だから(わかりやすくしなくちゃいけないから)ベタな部分もあるんだけど、さすがは善悪の彼岸を見つめ続けた山下耕作、ベタをやっても品がある。赤塚滋キャメラマンの画面もみずみずしいんだよなぁ。「教育映画」っぽさは抜けきらないけど、ホントよく出来てる。良作。この映画、俺の知る範囲だと、新宿中央図書館で貸し出ししているので、ぜひ。

『わかりあえる季節<とき>』は、山下耕作監督の遺作。在日三世の高校生が、HRに出ない不真面目なクラスメイトを、同和地区への蔑称を用いて罵倒する。その事件が問題化して、みんなで「人権」について勉強していくというドラマ。

担任で沖縄出身の勝野洋はかつて本土による沖縄差別があったことを話し、女子生徒は自分が被差別部落出身だと打ち明ける。告白の連鎖が反省、和解をあちこちに花咲かせ、大団円を迎える。モダンだなあと思うのは、生徒が自分の暴言・失言の理由を自己分析し、論理的に語っていくあたり。差別される者は本来”差別反対”を叫ばねばならないのに、さらに別の弱い者を差別してしまう、という人間洞察がリアル。俺も身に覚えがあるわ。つうかそんな話ばっかりだわ。ネットの世界でもそういう人間に出くわすことが多い気がしますわ。序盤の問題提起がインパクトでかいだけに、後半の収拾がやや弱いか。桜町弘子の出演も凄いけど、いきなり生徒たちと踊りだす校長先生に本田博太郎、市役所の同和対策室で、けしからん不動産屋に説教する職員に野口貴史というのもなかなか……。

ずぶぬれで帰る。カレー喰う。コロッケ喰う。書く。

夜、家人のあまりもの喰う。パン食う。書く。
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2008年11月26日

『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド監督)

なんだか頭が混乱してきたので、ちょっと心と脳みそを落ち着かせようと。イーストウッドしかあるまいと。

公開時に見た時はずいぶん散らかった映画だなぁ、イーストウッドにしてはイマイチだなぁ、という感想だったが、今見直すと非常に良かった。全然散らかっていなかった。何を描きたいのかが明確。基本的に地味な作風だが、ズバ抜けて聡明。彼が手がける静謐な音楽にもその性質がよく表れているけれど、ベラベラしゃべり散らすより、重い一言をぽつんと落とす方が効果的。そうした原則を、脚本・演出・演技すべてにおいて貫き通している。ゆえに美しい。落ち着きはらうことの意義を教えてくれる映画だった。勉強になります。
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2008年11月22日

『急にたどりついてしまう』『青春伝説序論』(福間健二監督)『悶絶本番 ぶちこむ』(サトウトシキ監督)

ポレポレ東中野で『急にたどりついてしまう』『青春伝説序論』(福間健二監督)『悶絶本番 ぶちこむ』(サトウトシキ監督)見る。ラストの『女学生ゲリラ』(足立正生監督)は見ずにおいとました。昼まで仕事しますんで。

『急にたどりついてしまう』は95年の公開。その魅力的なネーミングを目にした記憶はなんとなくあった。出演が伊藤猛、今泉浩一、伊藤清美、川瀬陽太……ピンク映画だと勝手に思い込み、濡れ場が見事にオミットされているのを見て、不可解な思いをした。が、当時本作を映写したことがあるという某映画狂氏に尋ねたところ、当時から一般映画として製作・公開された作品らしい。うー、無知と思い込みって怖い。ヒロインの松井友子が魅力的。他の映画にはあんまり出てないのかしら。作品は、すべてにおいて内向きなところがあって、個人的にはあまり乗れなかった。でも95年ってそういう時代だったかもしれない。

『青春伝説序論』は69年に作られたらしい。16ミリの陰影、質感っていいよなぁ、と……。うーむ。自分にはこういう映画はよくわからない。

おいらの主眼は『悶絶本番ぶちこむ!!』(ライク・ア・ローリングストーン、サトウトシキ監督)。前々からずっと見たかった作品。すごく勉強になりました。ピンク映画というれっきとしたプログラムピクチャーなれど、ジャンルってものに決して縛られない映画作り。ニンゲンの劇以外の何ものでもないそのフォルム。福間氏の脚本が持っていたにちがいない青臭さを、見事に脱臭するクールネス。……面白い。

ジャンル映画ってものの良さはもちろんある。でもそれに負けないこと。映っているものは人間なんだから。人間しかいないんだから。それを今必死で確認しようとしている。本作を見て存分に確認できた。トークショーで「アントニオーニのパクリだ」と脚本の福間氏自ら仰っていたが、アントニオーニの映画より面白い。やっぱくすくす笑えるからなぁ。南口るみね、という主演女優さんの名前も凄いが、目を引くのはやはり美しき葉月螢。あの棒読みと本田菊雄(菊次朗)氏の得体のしれない演技がクロスする幸福感。”映画”の栄養を吸収できた良き週末の夜。
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2008年11月20日

いろいろ見た

ヤマを超えたらまたヤマだった、みたいな毎日。眠れない。けど頭の中は不思議と冷静。不安なことも多い。何かを見落としているような気がして仕方がない。いいこともたくさんあった。いやなこともたくさんあった。前に進むしかない。開いている窓の前で立ち止まってはならない。

イサクは絶賛リライト中。

ベッドで輾転反側する時間を惜しみ、DVDをいろいろ見た。ある監督から参考資料としてお借りしたTVのホラーシリーズが、もうめっちゃくちゃ面白くて、打ちのめされた。ウーン、映画ってこういうことだよなぁと。いやテレビ放映なんだけど。そういや「テレビばかり見てると馬鹿になる」という映画もめっちゃ面白いんだけど、この作品をちゃんと褒めてるのって松江監督しか知らない。ドラマの底に沈んでいる人間の哀感にぐっとくる。

以下、最近見た映画の感想。

『ワイルド・バレット』(ウェイン・クラマー監督)。好きなタイプの映画ではあるけど、どんでん返しの連続に疲れた。基本的に子どもの存在がスリルを生みだす映画が好きじゃない。やかましい映像編集も好みじゃない。とはいえ、『ディパーテッド』のビッチな女医(ヴェラ・ファミーガ)のお尻がとてもきれいで良かった。いいなぁ、この人。のお尻。

『ミスト』(フランク・ダラボン監督)。ラストが悲惨すぎて爆笑してしまった。映画館で見たらもうちっとガターンと落ち込んだかもしれないけど。なんかもう、あそこまで悲惨だと笑うしかない。スティーブン・キング映画としては(その絶妙な安っぽさも含めて)最強ランクだと思う。あんま深みもない気がするけど、そこがいい。土曜日の夜に見る分には最良の映画。ダラボン先生、打率が高い。

『大いなる陰謀』(ロバート・レッドフォード監督)。「三大スター夢の共演」……のはずだけど、まさか椅子に座った役者が延々くっちゃべってるだけの映画を見せられるとは思わんかった。生硬なシナリオではあるけれど、「いや、これだけで映画は成立する」という脚本家(ジョー・カーナハンの弟)の意気込みに打たれた。面白い。単調な画面なのに最後まで飽きさせない演出、演技もたいしたもんだなと。ホント、三組の人間が議論してるだけの映画だもん。アフガンでヘリから落っこちた二人の兵士も、足が雪にはまって動けないという設定。徹底してる。共和党バッシングに終始せず、人物の経済状況を踏まえたリアルなドラマ作りに徹しているところもいい。アメリカ映画の振幅、気合を感じさせる秀作。

『美しい妹』(ジル・パケ=ブランネール監督)。「女の映画」を見たかった。マリオン・コティヤールが01年に主演した未公開作。自殺した双子の妹(姉だっけ?)になりかわってショウビズ界を生き抜く女の悲劇。彼女は歌手としての栄光をつかむが、妹(あるいは姉)は昔レズ物のポルノに出演していたことが判明して……という下世話な話。時折挿入されるイメージ映像のダサさが痛い。しかしわがままなヒロインの体臭だけはきっちり残していった。いや……特に面白くもなんともない映画だけど。フランス映画のヌードは相変わらずエロくない。


先日書いた京都造形芸術大学映画祭のみならず、週末は関東でも面白そうな映画祭が。おいらは前夜がオールナイト、週明けが締切なので無理そうですが、面白そうな企画なので、興味のある方はぜひ。

「ちば映画祭」

11月23日(日)

<タイムテーブル>
12:00〜
古厩智之監督「走るぜ」
奥田徹監督「青春ハンド」
廣田正興監督「代々木ブルース〜地図とミサイル〜」
* ゲストトーク / 古厩監督・奥田監督・廣田監督

13:45〜
ALEX COX 監督「EDGE CITY」

14:45〜
千葉大学シネマウント作品集

15:45〜
熊切和嘉監督「鬼畜大宴会」

17:45〜
東海林毅監督「23:60(にじゅうさんじろくじゅっぷん)」
* ゲストトーク / 東海林監督

18:15〜
石井聰亙監督「高校大パニック」 「1/880000の孤独」
※監督側の要望により、当日の上映環境によっては上映を中止する場合もございます。
  画像・音声に問題がない様であれば、予定通り上映させていただきます。

19:15〜
花くまゆうさく監督「人間爆発」「東京ゾンビ外伝」
* ゲストトーク / 花くま監督



※当日の進行状況などにより多少前後いたします。


<場所>
千葉市民会館 小ホール (http://www.f-cp.jp/shimin/


<公式ブログ>
http://chibaeigasai.blog92.fc2.com/


<「ちば映画祭」コミュ>
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3530645
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2008年11月13日

ストレート・タイム

自分としては本当に怒濤の日々。ようやっと落ち着いてきて、久しぶりに映画を見た。と言ってもビデオで。

『ストレート・タイム』(ウール・グロスバード監督)。

もう何回も見てるけど、見るたびに唸らされる。こういう見事な作品を見ると、映画はキャラクターだなと痛感する。一人のキャラクターが深く掘り下げられ、その人生の輪郭みたいなものが捉えられていれば、それで充分だという気がする。極言するとストーリーテリングなんて副次的なものにすぎないんじゃないか。

複数描かれる強盗シーンに、アクション映画・サスペンス映画的な派手さはなく、高揚感もない。痛々しいまでの緊張感と焦燥がリアルに描かれるのみ。それはマックスという主人公のキャラクターがきっちり描き込まれているから。というか、それだけを主眼とした作品作りをしているから。これってある意味ダスティン・ホフマンの一人芝居だもん。リアリズム一辺倒もつまらないが、等身大みたいなところから出発しなければ、嘘臭い、空回りした絵空事になってしまう。そういう映画も、見る分には好きなんだけれど、今はそういうものを面白がる気にはなれない。

以前、シナリオを直しながらST監督が口を酸っぱくして言っていた。「映画を見た客の心に残るのはキャラクターだけなんだから」。その言葉の重要性が、最近よくわかるような気がしている。絵空事をやらないこと、特別なことはしないこと、自分を見失わないこと。要は「嘘」をやらないこと。そうすると、「キャラクターを描く=人間を描く」ということに尽きてしまう。表層をなぞるってことじゃないよ。日常に転がるありがちな現象を、長回しのキャメラで撮って悦に入るような、あってもなくてもいいような映画を作るってことじゃない。繰り返しになるけど、大事なのは一人のキャラクターが深く掘り下げられ、その人生の輪郭みたいなものを捉えるということ。それは地味で小さな作品にしかならないかもしれない。でも確かなもの、リアルなものが作れる気はする。まあ……それが簡単にできれば苦労しないんだけど。

だからあれだ、今、映画学校であの監督の講義受けてる生徒は、細大漏らさずトシキ先生の言葉を聞いといた方がいいよ、マジで。根拠なく偉そうな言い方になるけど、10年くらい経ったらその言葉の重みがよーくわかるようになるから。もうホントそれしかないんよ。ま、生徒なんてこのブログ読んでないだろうけどさ。

実生活においても、時々「おっ」と思うくらい魅力的な人間に出会うことがある。その人のことを丸ごと知りたくなる。その人がそこに生きていて、存在していること自体が、自分にとってたとえようもなく幸福で、愉快で、尊く、意義深いことに映る場合がある。その人が苦しんだり悲しんだりしていると、こっちも苦しかったり悲しかったりするようなことがある。いやここ二ヶ月、そういうことがとても多かったんだ。ちょっと経験がないくらい多かった。でもそういう人と出会えたことの価値や嬉しさを、映画はいろんな形で表現することのできる媒体なんじゃないか。映画は人生そのものを映し出す――なんつって、理想論がすぎましたが、今頃になって映画の奥深さに唸る今日この頃なのでした。
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2008年10月09日

『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)

「映画時代」ですが、多くの方々に大迷惑をおかけしながら、着々と次号の準備が進んでおります。年内はこれで最後。原稿、表紙のラフなど続々とあがっておりまして、そのたびに歓喜の声をあげておる次第です。執筆やインタビューをご依頼するにあたり、未知の方々との出会いもたくさんあって、その一つ一つが実にスリリング。そして必ずご迷惑をおかけしてしまう形になっているんですが、何卒ご容赦ください。佐藤君と二人して、必ず良い特集に仕上げて見せますので。というかなりますよ、これは。何事も起きなければ。――だいたいいつも何か起きるんだけど。

シナリオ誌に掲載されたシナリオの講評もたくさん頂きました。ご意見をくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。少しでも良くなるよう努力いたします。ここ何年も企画が流れたりオクラになってばかりなので、ぶじ映像化されることをただただ祈っておりますよ。いやホント。切実。

ちゅうわけでなかなか忙しい日々ですが、気分転換に『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)。

これDVDで見たのは初めてなんだけど、ウーン、凄い。辰巳柳太郎がすばらしい。10年前に見た時はこの爺さんの冒頭のモノローグが鬱陶しくて仕方なかった。今見るとまさに辰巳柳太郎のための映画だったんだと感じ入った。悠然たる風格があり、すべての登場人物をガッシリ掴んで離さぬ気迫があり、はらはらと舞い落ちる銀杏の葉にさえ、細心の注意を払って意匠を凝らす執念深さが感じられる。血しぶきが襖を染めるタイミングとか計算し尽くされている。手抜かりが一切ない。最初から最後まで唸りっぱなしで、気分転換になんかなりやしない。まだまだ学ぶべきことが多いです。
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2008年10月03日

『幸福 shiawase』(小林政広監督)

『幸福 shiawase』(小林政広監督)

あー、俺はやっぱりこの監督が好きだ。

北海道は苫小牧市のちっぽけな町、勇払に降り立った男(石橋凌)は、公園のブランコで行き倒れる。男を拾ったのはスナックではたらくわけあり風情の女(桜井明美)。男と女は互いの過去を語らぬまま、同居生活を開始する――。

音楽がイマイチあってないし、ラストシーンも「ううっ?」となったりしたけれど、この監督にしか出せないユーモラスな味わいがすばらしく、最後までニヤニヤしながら楽しんだ。

謎めいている、というよりは少し頭が弱いんじゃないかと疑わせる節のある桜井明美がいい。台詞が少なく、歩き方がヘンで、でも「アノ時の声」を「アアーン、アアーン! こんな感じです」と人に説明する突飛なところもある。まるでフェリーニの映画に出てくるジェルソミーナみたいな雰囲気もちょっとだけある。葉月螢がやったらもっと不条理なキャラになっただろうけど、桜井明美はもっと生活感があって、生活者としての色気がじわっと香り立つ。見るうち、彼女をどんどん好きになってしまった。つまりこれが「キャラクターがよく描けている」ということなんだぁと。

出演は石橋凌、桜井明美、村上淳、橘実里、香川照之、そして柄本明。小さな役で本田菊次朗。小さな小さな世界の、小さな小さな物語。でも、それぞれ出演陣の存在感、輪郭がはっきりしている。同じようなシーンが何度もリフレインされるあたりが小林節で、「心凍らせて」を何度も熱唱する香川照之を見て『愛欲温泉 美肌のぬめり』(サトウトシキ監督)を想起せぬ者はいまい。おもろかった。

劇場で国映総帥のあの方にバッタリ。凄いめぐりあわせ。ビクビクしながら感謝の言葉。総帥、S監督、俳優のK氏、ドイツ人L氏らとそのまま飲み会。何かが連鎖するときは身をゆだねて吉。シナリオの批評をいろいろと頂戴する。鋭い意見ばかり。要は「女が描けていない」。『幸福』を見たばかりなので、身にしみた。総帥は色々とご意見を述べつつも、「でも私のじゃなくて監督の意見を聞きなさいね」と。その線の引き方がカッコ良かった。その他、いろんな話がうかがえて、ラッキーな夜でした。
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2008年10月02日

『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(ベン・アフレック監督)

『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(ベン・アフレック監督)

日本未公開作。

俺は『ミスティック・リバー』が一番好きな映画なんだけど、その原作者デニス・ルヘインの『愛しき者はすべて去りゆく』を映画化した作品。「パトリック&アンジー」シリーズとして人気らしい。パトリック&アンジー、なんつうからポップで楽しいコメディ調の探偵ものかと思ったら全然違うやん。めちゃくちゃシビアじゃん。そして、そのシビアさが非常に良い。

今年も全然劇場に足を運んでいないので、俺が本作品のDVDスルーを怒ったって何の説得力もない。でもこれは劇場にかけてもっと話題になるべき良作だと思った。原作ファンがどう思うかはわかりませんが。

ネグレクト、警察の汚職、私刑……。デニス・レヘインの手にかかるとボストンが異常に醜悪な町に見えてくる。でも実はすごく日本の風土にマッチした世界観だと思う。主人公の探偵、パトリック(ケイシー・アフレック)は知り合いのシャブの売人など、裏社会のツテを最大限利用して事件の解決に臨む。完全無欠なヒーローなどではありえず、途中、ギョッとするような悪事に手を染めたりもする。同時に映画は「あんたならどうする?」という問いを観客にも突きつける。選択を迫る。主人公は最後にある重大な選択を迫られる。選択には常に大きなリスクがつきまとう。そして主人公は、粛々とその報いを受けるのである。冒頭の「環境が人を作る」というナレーションが、この作品のテーマのすべてを言い表している。

ともかく、二転三転するストーリー展開、ジョン・トールの透明感あふれる撮影、しばしばニューシネマ風に挿入されるボストン在住の人々のリアルな顔立ちなど見どころが多く、ちょっと忘れ難いダークな余韻を残す作品でした。

モーガン・フリーマンにエド・ハリスと芸達者が顔をそろえているが、抜群に良いのが主役のケイシー・アフレック。『ジェシー・ジェームスの暗殺』の彼も非常に良かったが、変人臭のするルックスとかすれた声がすばらしく魅力的。すごくいい役者だと思う。個人的にはニヤケ顔の兄貴も好きなんだけどなぁ。アンジー役のミシェル・モナハンはぱっとしない役どころだが、そんな彼女にもやがて見せ場が訪れる。ニガイ見せ場だけど。

何がショックだったってエミー・マディガンの老醜。あまりにもショックで、一回見るのやめちゃったもん。『フィールド・オブ・ドリームス』でケヴィン・コスナーの奥さん役をやってる彼女が大好きで、長年、俺の妄想の中の奥さんは彼女だった。大人になったら、アニー(役名)みたいにかわいくて、鼻っ柱の強い、そばかすだらけの奥さんもらうんだい、と思っていた。もちろん『ストリート・オブ・ファイヤー』のはねっかえりなねーちゃん役や『プリンス・オブ・ペンシルバニア』でキアヌ・リーブスの童貞奪う年上の女っぷりもいいけれど、なんといっても『フィールド・オブ・ドリームス』のアニーなのよ。それがもう……ねぇ。時の流れは残酷すぎる。
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2008年09月30日

『地下広場』(大内田圭弥監督)

『地下広場』(大内田圭弥監督)。ポレポレ東中野にて。

1969年、学生運動たけなわの時代に、新宿駅西口の地下広場が解放地区と化していく様子を捉えたドキュメンタリー作品。いや、「地下広場」が権力によって「地下通路」に強制変更させられる過程を捉えた、というべきか。

団塊世代のとある映画監督にインタビューしたとき、「西口フォークゲリラ? 俺は行かなかったよ。だってカッコ悪いんだもん」といった意味のことを仰っていたが、その気持ちがわからんでもない雰囲気が少々ある。「歌」ってものが連帯感や精神的高揚を生むことは重々承知だが、肩を組み、手をつなぎ、「インターナショナル」を熱唱する若者たちの姿にはどうしても魅力を感じられない。高田渡の「自衛隊へ入ろう」の合唱が、徐々に「機動隊に入ろう」に変化していくシーンなんて、可笑しいけれど、そうやって小馬鹿にされる機動隊や警官隊のみなさんへの同情が徐々に高まってしまうのは、薄っぺらいヒューマニズムなんでしょうか。いやそうじゃない。自分たちの正しさを信じ、理想を叫ぶ集団化した若者たちに対する嫌悪感があるからだ。無意識の淵で眠っているはずの嫌悪感を叩き起こすのは何か。そりゃもうこのひどすぎる音楽である。もう致命的にダサい。安手のSF映画のサントラみたい。機動隊や警官隊が映し出されるたびに、ビヨヨ〜ン、ガビ〜ンとおぞましい電子音がエコーを響かせて鳴り響く。つまり若者は善であり、権力は悪だということを印象付けるための「演出」である。

『パルチザン前史』と比較しても仕方がないかもしれないが、あの映画で巧みに保たれていた距離感はこの映画にはない。作り手は露骨なまでに若者側に寄り添っている。その悪しき象徴がこの音楽だ。もちろん、映っている人達は真剣だし、この音楽をつけた人だって真剣だろう。でも、超がつくほど真剣に怒っている人を見ると、「プッ」と吹き出したくなるじゃないですか。音楽がそういう最低の効果を与えてしまっている。映画にとってどれだけ音楽がたいせつか。勉強になった。

考えさせられる要素もたくさんあった。地下広場に集結した若者らに、大人が詰めより、議論を戦わせる光景が数多く挿入されており、そこで成立している「対話」というもの、その熱気にあふれたコミュニケーションの在り方には素直に憧憬を感じた。戦後生まれの若者たちは社会主義思想にかぶれ、革命を信じ、自分たちは征服者であり帝国主義者であると自己批判し、ベトナムとの連帯を模索する。おっさんたちは敗戦後の混乱から立ち直り、東京オリンピックを成功させ、予想外の経済成長を成し遂げてきた苦労人世代。おっさんらの身にしみた実感としては生活が第一なのだ。若者の革命は気分であり遊びにすぎず、ベトナムで起こっていることよりもしっかり汗水たらして働き、人に迷惑をかけない生活を送ることが何よりも大事。若者らにとっては、そうした大人たちの態度は日和見主義であり、「自分さえよければそれでいい」といった独善としか映らない。

で、相反する考えを持つ彼らはお互い熱心に意見を戦わせるのだ。飽きもせず長々と議論するのだ。そこに人垣が出来て、これまた熱心に議論に聞き入っている。こうした議論には、世界情勢や社会主義に対する知識、社会人としての問題意識が必要。それがお互いの世代に充分にあったということだろう。こうした光景を成立させていたものは何だろうという気がしましたよ。もっと言うと、こうした光景を成立させるものを排除することが可能なのは、やっぱり権力だなと。だっていくら石を投げたり火炎瓶投げたりしたって、「広場」を「通路」に変えちゃう発想は若者側にないもんなぁ。「解放区」なんて落書きが出てくるけど、結局観念にすぎないもん。

こうして地下広場は地下通路となり、若者たちは排除され、歌声は消え、議論の光景もまた掻き消えた。舞台となった新宿駅西口広場には、十数年前まで段ボールに住み込むホームレスがわんさかいた。しかしやがて都庁方面への「動く歩道」が作られ、彼らはきれいに排除されてしまった。排除の歴史は隠蔽され、雑踏の露と消えた。ふだんよく利用する場所の歴史に思いを致すという意味では、見て良かったと思える映画でした。
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2008年09月25日

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)再び

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)

早稲田松竹で。スクリーンで見直して大正解。大傑作。

以下、完全ネタばれ。

物語全体よりも、傑出した一つのシーンのことを覚えてることがしばしばあるのが映画。特にスコセッシの映画なんて全体的にはバランスが悪くても、各シーンのインパクトは凄いもんがある。カサヴェテスもそう。PTAはそうした先達の映画作りの薫陶を受け、この作品のすべてのシーンを”名シーン”にしようともくろんだにちがいない。その狙いはほぼ成功していると言っていいんじゃないか。各シーンに仕掛けられた爆弾が個別的にあるいは連鎖的に炸裂し、見ている間中興奮しっぱなしだった。

冒頭、荒野に掘られた油井での採掘作業が延々と映し出される。地の底で、泥にまみれて取り組む孤独な作業。地上にかけられた一本の梯子の先にはうっすらと光がきざしている。ダニエルは一人だった。孤独な作業の中で黄金を見つけた。おかげで金ができ、人夫を雇えた。その中に赤子を抱いた男がいる。赤子は石油で洗礼を受けた。だが父親らしき男は事故で死に、ダニエルは赤子をひきとる。やがて石油が噴出する。ダニエルはいくつもの油井を掘り、土地を買い占め、人夫が続々と集まってくる。産業が形成される。小さな居住区が形成される。労働者たちは命がけの重労働に従事し、やがてそこに宗教がはいりこんでくる。

無人の荒野に男が現れ、石油を掘りあて、小さなコミュニティを形成する。それはすなわち理想の世界を作る営為。ところが男の理想郷を脅かす存在として宗教が現れる。それは彼の見地からすると、あたかも労働者の心に付け入るかのように忍び寄る邪悪な蛇だ。「第三の啓示教会」なるその宗派の牧師・イーライは金の算段に非常にうるさい。作品終盤で彼は聖書世界全般で忌み嫌われている「偽予言者」であることを自白する。しかし、額面通り彼を偽予言者と受け止めて良いものかどうか。

イーライはいわゆる「悪」なのか。そうではないはずだ。彼は彼なりに真摯な気持ちで教会を必要としている。信者数を増やしたからと言って、金儲けができるわけではない。宗教者の性質として、宿命として、義務として、信者を増やす必要があるというだけのこと。理想の教会を護持するために金が必要なだけだ。信者が苦しんでいるのなら、イカサマの悪魔祓いだってやるだろう。要するに彼は我々観客の大半と同様に、リアリストなのである。

しかしダニエルはイーライへの警戒を強める。神への畏れがあるのか、靴の中に入った小石なのか、ともかくダニエルは宗教の浸透を好まない。彼が信じるのは「家族」という概念だけ。彼の息子として育つH.W.とのあいだに血の繋がりはないし、彼の前に現われた「弟」のヘンリーも偽物だ。しかし、ダニエルにとって子どもや弟は、商談のイニシアチブをとるための商売道具というだけの存在ではない。彼の人生に必要な随伴者なのである。そしてアメリカという多民族国家の成り立ちを考えるとき、唯一信頼できるものが「家族」というダニエルのあり方は、非常に納得がゆくものだ。だから彼は、H.W.が爆発事故によって聴力を失ったあと、「癒しに来なかった」と言ってイーライに暴力をふるう。その時、イーライは未払いの金を請求にきていたのだが、その返答が「家族」の病を盾にした暴力だ。たとえ口だけのことではあっても、あのダニエルが神の力を望んだかもしれないという描写。実に心憎い。

ヘンリーが偽兄弟と知ったダニエルは容赦なく彼を撃ち殺す。殺して、自分の手で埋める。西部の男らしく、自分のことは自分で処理する。一夜明けた後、銃声とともに老人バンディが現われる。彼は神の使いのようにまばゆい光を背負っている。神の使いのように、ダニエルの殺人という罪を見抜いている。それゆえダニエルは彼を直視できない。

「罪」の生成――。原始的な世界に芽生える倫理=善と悪をジャッジする宗教の基幹。ところがこの映画において、倫理は取引によって得られるのである。バンディは持ちかける。イーライの教会への入信と引き換えに、ダニエルが長年望んでいたバンディの土地へのパイプラインの敷設を認めると。信仰が単なる取引材料と化すわけだ。ダニエルは宗教を忌み嫌っているが、それが貨幣である以上、彼の実存を脅かすものではない。彼のレベルに神の側からおりてきてくれたわけだ。あたかも神の使いの如くあらわれたバンディは、次の瞬間に、信仰の価値を一気に商取引の材料へと引きずりおろした。この映画の凄み、強さはここにある。

ダニエルはイーライから渋々洗礼を授かるが、それはダニエルにとって屈辱以外の何物でもない。以前、イーライの気の狂ったような説教を見たダニエルは、彼に「すばらしいショーだった」と痛烈な皮肉を言って去ったが、この時のダニエルは信者たちの前で「息子を捨てた」と告白させられる、何度も何度も。彼自身、もっとも傷ついている、罪の意識を背負っているに違いない行為を責め立てられる。彼にとっての「罪」は、殺人ではなく息子の放逐だったのである。その屈辱のさなかに彼は呟く――「パイプライン」。

ダニエルのその後の運命を見るにつけ、ここに神の怒りや資本主義批判を見てとることも可能かもしれない。パイプラインを敷くために偽物の信仰を身にまとう。これほど宗教を愚弄した行為もない。従って彼は神からの罰を受けるのだ、最愛の息子H.Wの離反や酒びたりの孤独な日々という形で――。だがはたして、それは神の怒りに触れたという理解でいいのだろうか。そんなカビのはえた解釈で。また個人的には、この映画は資本主義批判など1ミリもしていないと思う(たとえ原作がそうであったとしても)。そうした杓子定規な理解から自由になろうとした点に、PTAの偉大なチャレンジ精神を見る。

確かにダニエルは強欲だ。しかしスタンダード・オイルという寡占企業に、独立系の気概を持って立ち向かう姿を見るとき(ここでも彼が盾にするのは「家族のことに口を出すな!」だ)、彼の目的が「金儲け」といった実利的なものだけでなく、強烈な実存感覚に基づく「生きていたい」というただそれだけであることに気づかされる。彼は一生涯、戦場に身を置いておきたかったのである。失うものも多かろう。愛の神は彼を見捨てるだろう。しかし、だからといってなんだというのか。ダニエル・プレインビューというキャラクターの凄まじい魅力は、彼が何物にも「見つめられていない」ということに尽きると思う。彼は神の視線などによっては決して脅かされることがない。彼の良心は彼にしかわからない。彼の倫理は彼の中にしか存在しない。他者によって与えられたものではない。自分で作りだしたものだ。そしてあるかなきかもわからぬ神の視線とたわいもない自意識にこだわり続けてダニエルに「うち滅ぼされる(何という旧約聖書的用語!)」のはイーライなのである。

最後のシークエンスではダニエルとイーライの立場が再び逆転している。経済的に破綻してダニエルに援助を請うイーライに、ダニエルは「私は偽予言者だ。神は迷信だ」と何度も連呼させる。しかもスクリーンいっぱいにイーライを映し出し、観客に向かってそれを叫ばせる。意趣返しなんてものじゃない。なんたるスペクタクル。なんたる暴力。ダニエルはイーライを文字通り完膚なきまでに叩き潰す。ここで炸裂するダニエルの台詞は完全に「怒れる神」のそれである。そして事を為し終えた後、ダニエルは呟く。「I'm finish」――。飛躍した解釈を許してもらえるのならば、これは「成就しました」の言いかえである。イエス・キリストが最後に叫んだとされる「成就しました」のどす黒いパロディである。ダニエルは神の使いとしての使命を果たしたわけである。しかしダニエルにとっての神とは一体誰なのか? あるいは旧約の神が新約の神をうち滅ぼしたという冗談のような物語であったことを意味しているのか。『ドッグヴィル』がちょうどそんな映画だったように。

俺たちの世代にはスコセッシの諸作やアベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント』があった。PTAは彼らのモダンな”宗教”映画を多少なりとも享受してきただろう(『最後の誘惑』の最後の台詞も当然ながら「成就しました」である)。しかし『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はそれらのどれにも似ていない。スコセッシにしてもアベル・フェラーラにしても、どこかで神の絶対性に依拠してドラマを構築するところがある。それゆえ構造は単純で、わかりやすかったし、訴えるものも大きかった。イエスの振りかざすドグマを見透かした、新約聖書的世界観に基づいていたからである。

ところがPTAは登場人物自体が神であるかのような、不吉でおぞましくスケールに富む、旧約聖書的世界観でドラマを作っている。しかも、決してそこに依拠しない。作劇に「神」を必要とするナイーヴさを蹴散らし、我々の社会を20世紀初頭のアメリカの荒野に託して展開している。彼が参照したのはむしろ、ユージン・オニールやその後裔であるサム・シェパードらの戯曲ではないかという気がする。この荒っぽさ、自由、何らかの教義に決して収斂されない猛々しい世界観を探っていくと、どうもそのあたりに行きつくような気がしてならない。不勉強ゆえ断言はできかねるが。そしてもちろん、PTAはそんなものを再生産する気などさらさらないだろう。

一つの解釈に客を導くような作り方はしておらず、いかようにもとれる開いた映画作りに徹している。そうしたシナリオを可能にするのは高度な知性だ。だがその知性を、作家が、役者が、撮影が、美術が、音楽が、彼らの持っている野蛮さが、食い破っている。『ダークナイト』や『ノー・カントリー』なんかの哲学性を嘲笑する圧倒的な暴力性。俺は心底参りました。こう長々と書いてみても、ちっとも作品の核心に触れられていないことに憮然とするほかない。

見終わった後、一緒に見たW氏と興奮して3時間喋り倒した。そういう映画、最近あまり見てなかった。こういう映画を見ると打ちのめされる。しかしこれほど興奮を誘う映画もない。刺激を受ける映画もない。軽く絶望しながらも、それを通過した後、とても元気になった。現代の古典として、永遠にたどり着けない指標として、今後何度も見直すことになる一本だと思う。今年はこれ一本ありゃもういいや。
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2008年09月19日

『パルチザン前史』(土本典昭監督)

『パルチザン前史』(土本典昭監督)

いや、面白かった。60年代末期、敗北を予感しながらの、社会復帰を射程に入れながらの関西学生運動の現場がつぶさに捉えられている。バリケード封鎖された京大構内の様子、夜更けまで続く飽くなき議論。小難しそうな書物の山と、ローザ・ルクセンブルクへのあこがれ。革命への尽きせぬ思いと共闘、連帯、そして繰り返される「人間の絆」という美しい言葉。小ブルであることの恥じらい。彼らは何かを守るためではなく、破壊と抵抗によって理想を実現するために集まっている。「明確に」「物理的に」「主体として」といういかにも左翼的な単語を連発する、カリスマ性溢れる滝沢修の熱烈なアジテーション。その合間に、蒲団を投げ合って他愛無くじゃれあう学生たちの姿が挿入され、テキストだけでは汲み取れない往時の空気をまざまざと伝えてくる。

単一的な立場やイデオロギーにべったり沿うことは注意深く避けられている。アジに聞き入りながらも、薄笑いを浮かべたり、ゲバ棒で退屈そうに机をコンコン突いてる学生の姿がさらりと捕捉され、見る側の高ぶり始めたエモーションをやんわりといなす。そのくせ火炎瓶の作り方がやけに懇切丁寧に解説され、運動の実際というものを実感させる。ナレーションも質問者の言葉も一切なく、最低限の字幕のみで情況が説明される点が、見る側の抽象的な思考を促す。ある種の名状しがたい倫理が映像、編集、映画総体の隅々に透徹している。

中盤、機動隊と学生との市街戦が始まるあたりのワクワク感ったらない。怪我を負うことはあっても、命を落とすことがあるかどうかはわからない。だが、実際に路上のあちこちで火の手は上がり、石が投げられ、放水され、ヘリは舞う。戦場と言えば戦場。戦場(戦争)ごっこといえばごっこ。「学生運動は面白かっただろうなぁ」。シニカルな意味でなく、彼らの子供世代、すなわち団塊ジュニアである俺なんかが見ると素朴にそう思ってしまう。色々思うところはある。でもまあ、ともかく示唆に富む映画だった。何かが動いているということ、動き続けているということ、それが映画。そんなことを教えてくれる作品でもあった。

映画もおもろかったけど、映画を見るまでも、映画を見終わったあともいろいろと小さなおもろいことがあって、良い感じの夜だった。Y氏に深謝。帰りは劇場でばったり会ったSさんと駅のホームで終電まで話し込んでしまった。何かが連鎖してるときはその流れに身をゆだねて吉。ドラゴンズはBクラスに転落したが、まだまだおもろいことが続きそうだ。
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2008年09月13日

『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督)

『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督)

やっと見た。細部にわたるリアリズムの追求、善悪の彼岸を観照するシェイクスピアばりのドラマ作りに唸りつつも、アクションシーンがあんまり面白く映らないのは『ビギンズ』と同じ。冒頭の銀行強盗のシーンは秀逸だったので、どのアクションもあの程度の規模で収めてくれたらもちっと盛り上がったのになぁ。背中だけでそいつが誰であるかもうわかっちゃうという演技、撮り方はホント良いと思いましたよ。すなわち故ヒース・レジャーによるジョーカーなんですが。

奴が仕掛ける悪意に満ちた罠の数々が愉快。久々に映画の登場人物を真似したくなった。やたら口の中の音がくちゃくちゃする喋り方や内臓病んでる人みたいな歩き方、何にでも興味を向ける微妙にピュアな瞳、薄汚い髪の毛。ゴッサム・シティを恐怖のどん底に叩き落とす割に、身につけている服が市販の安物っていうのが感情移入を誘うじゃないですか。お金に興味がないという点がめちゃくちゃポイント高い。金に興味がない比較的貧乏な悪党、という設定が実は重要なんではあるまいか。つまり彼は通俗を脱しきった、精神的な貴族なんだよ。だからダークナイトというのはジョーカーのことだ。バットマンなんて金持ってるからあんだけフル装備できてカッコイイバイク乗りこなせて正義面できるんだろ。マイケル・ケインとモーガン・フリーマンの庇護の下、ぬくぬくとボランティア活動に励みやがってコノヤロー。もうバットマンいらないよ。ジョーカーとゲイリー・オールドマンが対決を繰り返す『ヒート』みたいな映画にすれば大傑作になったのになぁ(監督も「ヒート」みたいな映画だと自分で言ってるらしい)。

……というのは極論だけど、自分を「正しい」と思い込んでる奴ってだいたい自己陶酔型で被害者意識が強いのな。いや誰だってある程度「自分が正しい」と思い込んでいるものだとは思うけど。人間誰しも薄汚いところがあるし、知らず知らずのうちに悪事を行うことだってある。それを認めようと。さしあたり、ムカつく奴がいたら殴ったり蹴ったりしていいじゃん、法に触れない程度の悪事に手を染めながらチマチマと逞しく生きていこうよ。それはテロ容認につながる発想かもしれないけどさ(いやいやジョーカー見てるとそんな気分になるって話)。ともあれ、市民社会の良識に揺さぶりをかけてくるジョーカーみたいなキャラクターには、どうしようもなく惹かれてしまう今日この頃なのでした。

ジョーカー万歳!!
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2008年08月28日

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)

久々に熟睡した。9時半起床。これまた久々にジョギング20分。途中で腹痛。歩く。夕べ外を走り回ったソーニャを風呂に入れる。右目にゴミでも入ったのか、ヘンな顔になってる。

昼、ごはんとスープ喰う。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)。

大変面白かった。DVDで見るもんじゃねぇなぁ。アカデミー賞を競った『ノー・カントリー』よりはるかに面白かった。見終わってからも笑みが止まらない。”強欲”という主題とダニエル・デイ=ルイス&インチキ宗教者ポール・ダノのパワフルな演技で約160分をぐいぐい引っ張っていく。骨太なシナリオとパンチのきいた演技。久々に「これが映画じゃん!」と思わせてくれた。

”強欲”だけどそこにつきものの”姦淫”の罪はきれいに取り払われていて、もっぱら人間の強欲と「神」との対立を追求……するかのように見せつつ、実は神や”神の視点”なんて存在しない。いや対立項そのものが実はなかった! というオフビートな展開がすばらしい。怒れる神が徘徊する旧約聖書的な趣も意図的に取り入れているし、石油成金の孤独を描く悲劇、みたいな文芸大作めいた風格もある。でもこれって悲劇というより悲喜劇。生臭くて奇々怪々な人間学。映画好きの映画っつうか、PTAが好きそうなアルトマンの『ギャンブラー』っぽい映画だけど、俺はこっちのほうがずっと良かったな。すべてを突き放したような唐突な幕切れが最高。武満徹みたいな音楽もいちいち可笑しい。ざっくりとした構図と繊細な移動を駆使するロバート・エルスウィットの撮影もいい。

『ハードエイト』はよくて、『ブギーナイツ』と『マグノリア』は大嫌い(と言いつつ後者は4回くらい見てる)。ホントはナイーヴなくせに人様のワイルドな語り口で物語を語っているから。ところが自分だけの語り口を追求した『パンチドランク・ラブ』がめっさ面白くて、本作で完全に降参しました。近いうちにもう一回見ますわ。
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2008年08月26日

『東京残酷警察』(西村喜廣監督)。

体調絶不調。11時起きるもジョギング中止。パン一個喰って京橋で試写。

『東京残酷警察』(西村喜廣監督)。

ホラー/スプラッターに熱中していたのは高校生まで。それ以降、少しずつ興味が薄れ始め、大人になるとあまり見なくなった。というか忌避するようになった。人体が破壊され、血が飛び散る映画表現そのものにたいして情熱を掻き立てられなくなったばかりか、「気持ち悪い」という平凡な感想を抱くに至ったからだ。本作品もド派手な予告篇を見て、(苦手な映画っぽいなぁ)と思ったが、予想に反して耐えられた。というか面白かった。

近未来の東京では警察が民営化され、「東京警察株式会社」になっていた!――といえば問答無用に『ロボコップ』だし、折々に挿入される(株)東京警察のCMや、女子高生に人気の「リストカット用カッター」のCMといった風刺は『スターシップ・トゥルーパーズ』。フリークスたちが踊るクラブは『トータル・リコール』みたい。と、ポール・ヴァーホーベンのことを念頭に置かずにいられない設定、構造、世界観の数々ではある。しかし最も興味深いのはドラマの基幹をなす因果律。

民営化反対の立場をとった警察官(堀部圭亮・いい役者)の父を、目の前でぶっ殺されたルカ(椎名英姫改めしいなえいひ)は、”エンジニア”なる殺人ミュータントに寄生された凶悪犯を粉砕すべく、日々粛々と血の雨を降らしている。ある時、エンジニアの生みの親が、父を殺害した男(板尾創路)だと知ったルカは、復讐の念に燃えるのだが……。

その「だが……」あたりの展開がポイント。民営化された警察は国家権力とは言わない。桜の代紋と鎧兜によって重装備された”伝統だけはある暴力装置”という身も蓋もない存在になり果てている。そこに身を置くヒロインは殺人ミュータント狩りに精を出すわけだが、彼女の内で燻る何かが、ついには”本当の敵”を手繰り寄せてしまうわけだ。洪水と見まがうばかりに流される血しぶきよりも、その運命の変遷が個人的には見どころだった。「敵」ってものを考える上で、正しく現代的という気がした。

まあ物語よりも全編にわたって繰り広げられるスプラッター描写にこそ重心が置かれた映画だと思うが、「見せる」事に徹底してこだわったがゆえに、水芸のような血しぶきにも徐々に驚きがなくなり、次第に平坦化していく印象があったのも事実。足し算を重ねて一切引き算はしない、という姿勢。個人的にはやや食傷。結局スプラッタ好きではないということだろう。夜、あったまった劇場で笑いながら見るのが吉。

小さな役だけど、長澤つぐみのワニ女がいい。パカッと大股開きすると下半身がワニの口になってるの。変身前も変身後も可愛かった。そもそも爬虫類っぽい顔立ちだし……。

上映前にしいなえいひと監督が挨拶。しいなえいひの白くてすらっとした脚の美しさに目が釘付け。余計に熱が出た。

http://www.spopro.net/tokyogorepolice/
(公式サイト)
10月4日から渋谷シアターNでレイトショー公開


というわけで、その後の予定全部とりやめにして帰宅。風邪直らん。

深夜、のそのそと起きだして仕事。寒い。澄んだ夜空に三日月が出ている。なんかもう秋だなぁ。まだ夏を満喫しとらんのだがなぁ。
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2008年07月31日

『トウキョウソナタ』(黒沢清監督)

『トウキョウソナタ』(黒沢清監督)。試写で。

新人シナリオコンクールの大賞受賞作品、みたいなバランスのとれた家族劇を基本としながら、SF的要素(外国人の志願兵を募集するアメリカとか)や突発的な事件・事故を導入して脱・類型化を図っている。前半までは露骨な黒沢清節が影をひそめ、だからというわけではないが、傑作の予感がプンプン匂っていた……のだが。

以下、ちょっとネタばれ。

「好き嫌い」の分別で語っても意味ないが、後半、役所広司が登場してからの「黒沢清」印のつきまくった展開、語り口に、乗る人は乗るだろうし、おいらみたいに「こういうのが苦手なんだよなぁ」と思う人には残念な感じだった。でも一番のネックは役所広司ではない。希望を失い、崩壊を眼前にした家庭や時代や社会状況を打破するための一種の方策として本性を表わす「天才」は、結局のところデウス・エクス・マキナに過ぎないんじゃないか。あいつが天才でなく、凡才であれば、もっと別のドラマが展開され、もっと地味で、しかしそれゆえに強さを持った希望の道筋が示されていた気がしてならない。じゃあそれが何なのか、と問われても返事に窮する。それでも、映画やテレビドラマでしかお目にかかったようなことのない「平凡」なサラリーマン家庭を主体とするのであれば、もっとその平凡の深みへ足を踏み入れてほしかったというのが正直なところ。せっかく「現代社会」を真正面から描こうとしたのだから。

でも「不況」を絵にかいたような配給(炊き出し)や、墓場へ向かって行進するがごとき失業者の行列を捉えたショットなど、その過剰さ、大胆さ、大胆ゆえに一発ですべてが伝わる明晰な画面が迫力を生み、そこに香川照之という当代きっての実力派がたたずむことで、「映画だなぁ、映画だなぁ」というため息がダダ漏れしたのも事実。香川照之の同級生を演じる津田寛治なんて最高だ。彼の、始終鳴り続けるケータイの扱い方一つに、ずば抜けたセンスが光っている。風の吹き方、光の明滅、移動撮影の快楽。細部の凝った意匠は折り紙つきでした。

9月27日より公開。

http://tokyosonata.com/index.html
『トウキョウソナタ』公式サイト
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2008年07月30日

『ブタがいた教室』(前田哲監督)

『ブタがいた教室』(前田哲監督)。試写にて。

上映時間の半分くらいずっと泣いてて、疲れた。目を指でこすり過ぎて目尻が痛い。泣ける映画=良い映画とはまったく思わないが、これは泣けて、しかも良い映画だった。ふと立ち止まって「命」「食」「教育」という問題について考えを巡らさざるを得なかった。ペットを飼っている者にとっては、なかなかに悲痛な想いを誘われる作品でもあり、超満員の試写室を出て大急ぎで家に帰り、迷惑顔のソーニャをぎゅーっと抱きしめた。しばらく遊んだ。「人間みたいに長く生きられないんだもんなあ」と言いながら。ま、それもすぐ飽きるんだけど。

90年に大阪の小学校で行われた「ブタを飼って、最後にみんなで食べる」という実践教育がモデルとなっている。これはドキュメンタリー作品になって93年にテレビ放映され、好評を博したらしい。その後、当時の子どもたちの「それから」を追った作品も放映されたはずだ。俺は両方とも見ていないけど、周囲でちょっと話題になった覚えがある。

映画は星先生(妻夫木聡)が子ブタを教室に連れてくるところから始まり、「ブタを飼ってみんなで食べる」ことを児童たちと話しあって決め、それからの一年間をドキュメンタリータッチで追いかける。ドキュメンタリータッチの演出が奏功し、ブタの取扱いをめぐって幾度か展開されるクラス討論会の場面なんて手に汗握る。卒業を間近に控えて、「Pちゃん」と名付けられたブタを食肉センター送りにするのか、下級生に託すのか。意見は真っ二つに割れ、議論百出し、大人たちとさして変わりないレベルの抽象的、感情的、哲学的とさえ言える質の高い応酬が続く。すごい台詞が精肉屋の息子(好演!)から吐かれてガツンと胸を衝かれた。でも議論の流れの上で聞いてほしい台詞だから、ここでは触れない。

もちろん脚本はある。でもそれをほとんど感じさせないあたり、演出の勝利というべきだろう(だから大人だけの場面は、やけに「演技演技」「虚構虚構」が見えてしまい、ちっとも良くなかった。やがてそれも気にならなくなるのだが)。驚くほどのスピーディなテンポで話は進み、とうとう審判の日がやってくる。もちろんこの先は書きません。

我々の生活は動物の命を食らうことで成り立っている。食うために動物たちを育てている。食われるためだけにこの世に生れ、日々を過ごす動物が存在することで、我々は生きていくことができる。解体や精肉といった、我々がスーパーでパックを購入する前段階について触れていないことで、この作品の欺瞞を言う向きも出てくると思うが、さしあたり食物連鎖、弱肉強食の厳粛なシステムについて身をもって知ることの意義を説いているわけで、俺としては不満はない。大人もさることながら、何と言っても子どもに見せるべき一作だ。

そうそう、ここでは「責任」という主題も扱われていて、自分たちの問題を下の世代に押しつけて良いのか、という議題が何度も出てくる。確かに人間は失敗をするし、取りたくても取れない責任ってあるんだけど、消費税増額によって社会保障の財源を補おうとしているジジイどもにも全員見ろと言いたいですよ。

てっきり、みんなで可愛がって育てたブタが、子どもたちの目の前で解体され、給食の時間にショウガ焼きかなんかになって出されて、教師役の妻夫木聡が目を真っ赤にしながら、「喰え! 喰うんだ! 先生との約束だろうッ!!」とか怒鳴って、子どもたちがわんわん泣きながら「食べたくありません!」「喰えーっ!」子ども、嫌々肉を口に運び、思わずゲボーッって吐いちゃったりして、という面白すぎる地獄絵図を想像してワクワクしていたが、まあ、そういう映画ではなかった。

先生役の妻夫木聡がやはり良い。

11月1日公開。
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