2015年12月26日

鈴木忠志のSCOT吉祥寺シアター公演『エレクトラ』&『からたち日記「由来」』

鈴木忠志のSCOT吉祥寺シアター公演、昨日は『エレクトラ』。今日は『からたち日記「由来」』。両方とも上演後のトーク付きで、とっても尊くて、幸福な時間だった。
劇構造、人物、台詞が極限まで切り詰められた『エレクトラ』(原作:ソポクレス/脚色:ホーフマンスタールのテキストを鈴木忠志が再構成したもの)は美しく、狂っていた。
「愛人と共謀して父を殺害した母を、弟を誑し込んで殺害する女の物語」であるところの『エレクトラ』物語は、精神病院の患者の女が見ている妄想と捉え直される。したがってエレクトラ(佐藤ジョンソンあき)の鍛え抜かれた筋肉も、強すぎるまなざしも、復讐の鬼というよりは狂人のそれかもしれないという疑念をたえず抱かされる。
車椅子に乗って大股を開きながら英語で台詞をまくし立てる母クリテムネストラ(エレン・ローレン)は、派手で大輪の花のように狂っている。彼女だけが英語なのは、単にキャスティングの問題なのかもしれないが、あたかも日米関係の揶揄の如く見えて来るところが可笑しい。
妹のクリソテミスは、何やら謀を企んでいる目で内と外を往還し、エレクトラに狂気のガソリンを注ぎ込む。ゴドーのように待ち望まれていた、復讐を代行する(させられる)弟オレステスは、登場した瞬間に、誰もが一発で「オレステス」とわかる凛々しい風貌でありながら、その四肢はいびつに硬直しており、布で覆われ隠されている。すべてがいびつ。すべてが不安定。それでも復讐の完遂は目的の達成であり、祭りの終わりである。悲劇のカタルシスはどこか徒労めいたエレクトラの退場で打ち消される。出演者が車椅子でぐるぐると舞台を回り続ける幕切れは、祝祭のようであり、儀式のようであり、エレクトラが日常的に見ている悪夢のようでもであった。
上半身裸で車いすを乗り回す患者たち(コロス)が放つ呻き声や苦悶の表情(実存の確かさの極限=身体の痛み=ベケット『ゴドー』で描かれる歯痛など)にカントールを思い、始終舞台に立ってドラを叩きまくる雄弁な演奏者(高田みどり)にP・ブルックの『バトルフィールド』を思い、「動かない」ことで沸騰するエネルギーの磁場でエレクトラの狂気が激しく高められていくテンション、そしてふいに訪れる静謐に、お能を思った。今年自分が手探りで追い求めてきたものの軌跡がそこに集約されたみたいだった。もう一つ。ここまで身体性に拘ったアヴァンギャルドな舞台において、黒光りするようにいよいよ強靭さを発揮するギリシャ悲劇のテキストよ……。もしくは、テキストの重さを真正面から受け止めた鈴木演出の凄味というべきか。古典は尽きせぬ表現の油田であることをディープに証明した舞台だった。
『からたち日記「由来」』は『エレクトラ』とはまるで違い、日本の伝統芸能をモダンかつ精魂込めて蘇らせたような力強さが魅力だった。古い日本家屋を模した部屋に座る三人の男女は上演が終わるまで立ち上がる事が出来ない。文楽の太夫と同じである。内容は大正時代に起きた事件に材をとった「心中もの」で、物語るのは真ん中に座る気の狂った老いた母親(内藤千恵子)。彼女の左右にいるのは、台本によると、「息子」とチンドン屋の「伯父」らしいのだが、その二人の台詞の殆どを、彼女が代わりに喋ることになる。その意味においても太夫であり、吟遊詩人であり、琵琶法師でもあるという、カタリモノ、芸能の起源みたいな形式で、古式ゆかしい不倫劇が語られる。
それにしても喋りっぱなしの母を演じる内藤千恵子という女優さんの声色の変化、リズム感、何よりも太夫としてのパワーには圧倒される。モノガタリの中で、心中は未遂に終わり、男だけが無残に死ぬ。女は顔にヒドイ傷を負って生き残る。彼女はそこで心中直前に見た、愛する男の背中を思い出してこう言うのだ。「さよなら、初恋」。どっと涙が出てしまった。これは作品の目指す地平からすると、とても俗っぽい部分なのだ。そんな甘っちょろい涙を嘲笑するような知性で統べられたハイアートなお芝居なのだ。だがその大衆的な、メロドラマ的な、しかし純然たる美しさを放つ声色と言葉に、その情感の素晴らしさに、心がぐっと掴まれてしまった。心中事件と並行して語られるロシア革命や国会や天皇制といった、いかにも男性的なロマンや権力機構が、男女が飛び込む汽車の轟音に結実する演出など、相対化の手腕は見事なのだが、結果的に自分が強く打たれたのは悲恋の情緒だった。日本の伝統芸能「心中モノ」の繊細で優しい部分が瞬間的にクローズアップされたみたいだった。幕引きの「ありがとうございました」があんなにきれいに響いた例を他に知らない。
今年最大の衝撃だったカントールを追いかけていたら、鈴木忠志に出逢った。どんな方なのかまだ全然わからない。でも三日間通い続けてその作品と言葉に接した感じでは、なんだか大きな魚にぶち当たった感じだ。求めよ、さらば与えられん。
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2011年07月27日

『ひかりをあててしぼる』(佐藤寛子主演・坂牧良太演出)

■昨日拝見した舞台『ひかりをあててしぼる』は、ひとまず「DV」を描いた芝居、と言うことは出来る。DVを描く上で必要な約束事、人物の背景だとか、暴力を振るう側の屈折、振るわれる側の屈折だとかを、いわば段取りとして踏まえるのが前半だとすれば、後半は一気に「おんな」の魂の赤裸々へと焦点を絞っていく。DVは玄関前におかれた飾りにすぎないのである。いや参った。ヒロインを務める佐藤寛子さんのポテンシャルの高さよ! 刻々と変化する美しい顔立ちや佇まいに見とれているうちに、いつのまにか心を持っていかれてしまった。だがそれは蟻地獄のごとき悪夢なのだ。ああいった女性の底知れなさを目にすると、おれなんかは全身の血が騒いでしまう。

■主題が主題なので、おそらくこの舞台は耐えられないという人もいるだろうし、ふつうのお芝居としてふつうに受け止める人もいるだろう。個人的には、映画であれ舞台であれ、力量のある女優を中心に据え、彼女の持ち得る力をすべて引き出そうという作り方が大好きだし、何というか「しっくり」くる。一人の女性の魂の深淵に降りていくと、そこには倫理や道徳を超えた、なんだかよくわからない血まみれの生命体が息づいている……そんな世界。だから、そうした世界観にきっちり則ったこの舞台は大変よかった。そしてその世界観を細い体でガッツリ担った佐藤寛子様はすばらしいと、何度でも連呼しておきたい。

http://www.inveider.com/hikari
29日までですよ。公式サイト

■帰路、いろいろなことを考えていたのだが、ベルイマンが好きな人間は、「神の沈黙」に思いをはせたいのではなく、女というなんだかすごい生き物に魂を揺さぶられたいだけのマゾヒスティックな人種なのだよな、と思った。自分のことですか? はい、自分のことです。
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2010年02月01日

『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

中板橋イプセンスタジオで『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)見る。

『天国への遠征』はマイ・フェイバリット作家・椎名麟三作の戯曲。『塩狩峠』は三浦綾子原作の小説を、朗読劇風にアレンジしたもの。どちらも面白かった。

前者は椎名麟三のユーモアとヒューマニズムと「ほんとうに生きる」ことに対する真摯な探求心に打たれ、後者は純度100%宗教劇でありながら、その力強さにはやはり心動かされた。

ただ、後者はどこまでも信仰や自己犠牲の尊さを訴えた作品なので、場が感動的に盛り上がれば盛り上がるほど、批評精神旺盛な観客には受け入れがたいものに映るだろう。「伝道」が主目的の芝居と言えなくもないので、メッセージがストレートな分、引く人は引く。自分はこうした芝居の作劇に興味をひかれるクチなので、いわゆる「感動」とは違った意味で、感銘を受けた。「一粒の麦」ってモチーフ自体がほんっとに好きなのよ。

でもやっぱり椎名麟三先生だなぁ。あの人の世界観、好きだわ。後者に比べると、とても知的な作品だと思う。でも知的にならざるを得ない人の悲しみも、ちょっぴり感じさせるのだな、麟三先生って人は。「純粋」を生涯かけて追求し、自らのアイデンティティとする学生と、「愛」をアイデンティティとする身持ちの悪い女、「信仰」をアイデンティティとする老婆。この三人が死後の世界で「悪魔」と呼ばれるむさくるしい爺さんに出会うって話。みんな、そのアイデンティティの内側に閉じこもって生涯をすごしてしまっていただけ、という展開が何ともぐっとくる。

だから、信仰の美しさを描いた『塩狩峠』で号泣した後、それに対する懐疑のまなざしを投げかける『天国への遠征』で、はっと我に返り、悶々と自問自答しながら帰路に着く、というあり方が俺としては面白いんだけど、残念ながら上映は『天国への遠征』が先なのだった。
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2009年09月29日

『ロスメルスホルム』(イプセン作、花島宣人演出)@中板橋新生舘スタジオ

『ロスメルスホルム』(イプセン作、花島宣人演出)@中板橋新生舘スタジオ

ノンポリだった元牧師が、舘に身を寄せている女、レベッカの唆しによって左派に転じ、保守派の親友と袂を分かつ。だがレベッカには隠された意図があり……。

政治的な問題を扱っているが、それは入口に過ぎず、人の心の不安定さ、欲望を満たすために犯してしまう罪、悪意、言葉では説明にしにくい、人の不条理な情動などを描いている。自分らしさというものを持てずに右往左往する元牧師や、敢然と保守思想を貫くその友人など、男たちの営みは割合類型的で、疑問を抱かせない。とにかくこの劇の鍵を握るのは、一種のファム・ファタールであるレベッカなのだ。話が進むほど明らかになっていく彼女の過去と目論み。レベッカは元牧師の妻が邪魔だった。だから彼女の耳に言葉によって毒を注ぎこみ、自死へと追いやった。その心境をつづった台詞がすばらしい。

「誘惑にかられて一歩踏み出すたびに、心の中で恐怖の叫びをあげていたの。やめるんだ! これ以上踏み出しちゃいけない! ――でもやめられなかった。もう少しだけ、そういう誘惑に負けて、唯の一歩だけだと、いつも、一歩だけ、もう一歩だけ――そして、こうなった。こんなことは、そういう具合にして起きるものなんです」

説得力あるなぁ、と思う。冷酷無比な計画を成し遂げながらも、実のところそうした行動にはとても繊細な葛藤が伴っており、しかも自分自身、そんなことを本気でなし得るとは考えてもいないのである。だが、元牧師の妻が自死するお膳立てをしたのは絶対的にレベッカなのだ。

イプセンの描く女性像はいつでも複雑な性格をなしており、多面的で、その息遣いがちゃんと聞こえてくる。そしてしばしば、意図的にも無意識的にも、男を破滅に追いやっていく。だがそれは本当の破滅ではなく、どことなく甘美なペシミズムを帯びている。いや、俺にはそう見える瞬間がある。こう言っていいかどうかわからないけど、すごく女性の内臓、そのあたたかさと生々しさを感じさせる劇ばかりって気がするんだよなぁ。ロジックでは決して解き明かすことのできない、謎めいた生物としての女性を描こうとしているというか……。

なんせ、このレベッカというキャラクターを完全に把握し、コントロールするのは相当困難だと思う。役者が役の手綱を引くのではなく、役が役者を振り回すんじゃあるまいか。というのも、戯曲読んでても、結局彼女がわからないのだ。わかったようでいて、よくわからない。だからこそ解釈の仕方も多様だし、役としての底知れぬ魅力があるとも言える。なんせ、久保田さんは頑張っていたと思う。でも難役だなぁと。

劇中、自分が元牧師の妻を死に追いやった奥底には、「その場所に座りたい」という気持ち、それから元牧師に対する激しい性的欲求が潜んでいたとレベッカは告白する。「えっ、そこでそんなこと言うの!?」って感じで露骨な告白はなされるんだけど、ベルイマンの映画にもこういう唐突な女性の性的欲求の告白ってよく出てくるなぁと。最初はどんなに異様に映るものでも、ちゃんとオリジナルがある。古典に触れるとそんなことが学べる。

難しい劇だけど、高く高く聳える山だからこそ、挑戦する意義がある。そう思わせられる芝居だった。そして改めてイプセンの戯曲は再点検する必要があるなと。そんな機会を与えてくれただけでも、この上演に触れたことは、自分にとって非常に有意義だった。
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2009年09月20日

『小鳥の水浴』(作:レナード・メルフィ、演出:田辺日太)@池ノ上シネマボカン

『小鳥の水浴』(作:レナード・メルフィ、演出:田辺日太)@池ノ上シネマボカン

去年は高円寺で日高ゆりあ版を見た『小鳥の水浴』、その里見瑤子バージョンにようやく“再会”できた。五年前、下北沢で里見さんがヒロインを演じたこの芝居に受けた感動についてはさんざん書いた。でもこの日の再会にはびっくりした。これまで見たどのバージョンともまったく違った。熱いヒューマニズムに魅入られてきた芝居だが、今回、この劇のダークな側面、すなわち人間に対するシビアな視線、不条理劇としての持ち味、絶望的なまでに痛ましい孤独な魂……がくっきり浮き彫りにされていた。非常に面白かった。演劇ってものの奥深さに改めて気づかされたお芝居でもあった。

ヴェルマは病んでいる女だが、今回はのっけから「病み」全開。痛々しさもここまでくると怒りに近い感情をかきたてる。対するフランキーはぐっと覚めた目で彼女を見つめ、徐々に下心をもって接近を図る。ヴェルマを突き放して描くことで見えてくる、フランキーという男。突き放して描かれることで、見る者の人間全般への愛情を問うヴェルマ。何より、情緒やヒューマニズムで話をまとめなかった点に驚いた。創作者の狂気をきちんと押さえていた。すべてが終わってしまった女の墓場をちゃんと見せつけていた。終盤、爆発する里見さんの芝居が凄まじかった。やっぱりすばらしい女優だと思う。

その後、池ノ上から下北沢へ流れ、夜っぴてスペシャルな方々、はたまた、こないだお仕事させて頂いたばかりの方々と飲む。先輩方のお話を伺うと、目から鱗なことがたくさん。見てきた映画を語る池島監督の名調子は、淀川長治に匹敵すると本気で思った。大先輩脚本家G代さんから、「ピンクとは何ぞや」という主題に関して、「うわーっ」と言いたくなるくらい、自分にとっては物凄く重要な、示唆に富むお話を伺ってしまった。そうだ、そういうことなのだ。

http://www.cinemabokan.com/
里見さんのバージョンは21日、23日、25日までやってます!
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2009年08月17日

『父と暮せば』(作・井上ひさし/演出・西田正)@新生舘シアター

『父と暮せば』(作・井上ひさし/演出・西田正)@新生舘シアター

ホントは『塩狩峠』と二本立てだったんだけど、休憩時間に緊急の仕事呼び出しメール喰らって急遽帰宅。それゆえ本作のみ観劇。教訓。芝居の休み時間にメールチェックはしないこと!

二人芝居である本作、原作も未読だし映画版も見ていない。今回の公演で初めて接した。良かった。何度も目頭を押さえた。原爆で父(井岡薫)や友人のすべてを失った娘(久保田涼子)が、被爆の後遺症や、「自分だけが生き残ってしまった」という後ろめたい気持ちに苦しみながら、死んだ父の幻影と生きていく姿を描いている。

ユーモアをたっぷりまぶしながら、少しずつ被爆者の悲劇を焙り出す構成術が絶妙。井上ひさしってこういうのがホントうまい。ひとつ思ったのは、それが被爆体験であれなんであれ、女性を主役に据えたことで、その事態に対する感受性が広がり、肌感覚となって伝わるのだな、ということ。見ているこちらも感性が柔らかくなるし、まがまがしい出来事に対峙する心の持ちようが、なんつうのかな、ノーガードになる。恋愛の話も絡むから感情移入もしやすいし、決して露出されることのない左肩の傷跡も、女性ゆえにいっそう痛々しい。それは娘役・久保田さんの体つきや顔立ちが役柄によくフィットしているというのも大きい。彼女の持ち前の明るさと清潔感が、主題のおぞましさを解毒する効果を挙げている。お父さん役の井岡薫も愛嬌と悲しみの入り混じった演技が良かったです。でもわたくしは久保田さんファンなので、不謹慎ながらモンペ姿に萌えました。てへ。
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2009年07月11日

『名残』(作・演出ブラジリィー・アン・山田)

明け方、エヴァTV版見てたら妙に眠れなくなって、結局昼までぼんやり過ごす。夕方のこのこ起き出し、紫蘇と胡麻とかつお節のっけたご飯喰って、吉祥寺へゴー。駅から末広通りをまっすぐ行った突きあたりにある前進座で『名残』(作・演出ブラジリィー・アン・山田)。イサクこと尾関さんが準主役で出演しており、ご招待いただきました。ありがとうございます。物語自体は大衆演劇の王道、笑いあり、恋あり、立ち廻りありのフルコース。難しいこと言わない、肩の凝らない作りで、気軽に楽しむことができた。マイケル・ジャクソンネタなんかを取り入れる姿勢が演劇的に正しい。

尾関さん、ダメ人間のイサク役見てるとそう思えないんだけど、この方本来は凛々しいイケメンなのだ。道場のズッコケ門下生を取りまとめるといういい役だった。メインは林邦史朗さん。彼の芸能生活50周年記念公演なのだ。歴代大河ドラマの殺陣から「8時だよ全員集合」の立ち廻りまで、めっちゃ幅広い仕事ぶりで知られる超有名人らしい。あらゆる武術に精通しているそうで、その成果が本公演のラスト30分の武劇で存分に披露される。ひたすら古今東西の武器や忍術や剣舞が次々と展開されるんだけど、真剣を使ったワザに冷や汗が出る。怖いっす。マジ勘弁っす。ほんっと苦手。あ、でも武劇のみ出演の、ショートカットの小柄な女の人の動きがきびきびしてて見とれた。このところ精神的にやや揺れていたから、ひたすらお客を楽しませるエンターテイメントを見て、気持ちが楽になった。

吉祥寺ぶらぶら。夏の週末の夜、若い男女がうじゃうじゃいて楽しそう。あちこちで恋の鞘当てやってるんだろうな。若いってええなぁ、若いってええなぁ! 疎外感を感じながらひっそりラーメン喰って帰った。

WOWOWで「イサク」見る。現場をずっと見た映画って永遠に客観視できないのかもしれない。ちっちゃい吉沢さん見てて泣きそうになった。
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2009年05月22日

『薔薇の館』(作・遠藤周作、演出・西田正)

どこかで誰かが泣いている。どこかの誰かの悲しい気持ちを、何の因果か俺が背負わされている。といっても殆どの人は意味がわからんだろうが、もちろん俺にもよくわからない。このところ不眠不休で内職に取り組んでいるので、神経過敏になっているだけかもしれん。

どこの誰だか知らないけれど、泣くなよ。

中板橋の新生館スタジオで芝居『薔薇の館』』(作・遠藤周作、演出・西田正)見る。どうしても見ておきたかった。原作の戯曲の感想はこちら↓

http://takehikominato.seesaa.net/article/112213368.html

物語の大半で教会の神父=“父”は不在である。おなじみの「神なき世の悲惨」は群像劇の形で展開される。信仰上の立場から徴兵を逃れ、脱走・収監の挙句自殺とも知れぬ死を遂げてしまうクリスチャンの高志、高志の許嫁で気がふれてしまうとし等など、みんなは降りかかる悲劇に耐えきれず、神を求める代わりに無能な修道士・ウッサンに救いを求める。しかしウッサンは人を救えるような器ではない。ウッサンは疲弊し、自殺と看做さざるを得ない形での死を遂げる。

「神」などという、いるかどうかもわからぬものに依拠した人間たちの苦悩や死は、冷めた目で見れば喜劇でしかない。

風見鶏で、庶民の典型であるような田端や、「人の不幸は蜜の味」とうそぶいて人間の本質に開き直った勢子、無神論者でニヒリストの清岡といった、信仰とは無縁の者たちは尽く生き延びる。だが信仰を持つ者にも持たぬ者にも、戦争は悲劇の雨をあまねく降らすのである。

抑留地から帰還した神父と、悲劇の只中に居続けた清岡が、ラストシーンの一個手前の場面で対峙する。無神論者の清岡はしつこく「神はいない」と言い続けてきた男だが、そこまでの拘りは神を切実に求める気持ちと同根だ。やがて彼は、あまりにも無力で犬のように哀しい目をした、死んだウッサンの向こうに神を透かし見るようになる。復活を信じることができそうだという。その瞬間、舞台には高らかに鐘が鳴り響く――。

限りなく”護教的”な結末で、原作を読んだ時もそうだし、舞台を見た今もそうだが、けっこう考え込んでしまった。復活や神の存在の確信という、最高に「劇的」な出来事は否が応でも感動を催す。一本の宗教劇の結末としてはこれが理想だと思う。暗い夜の果てに光を見出すわけだから、観客にカタルシスを与える上でもこれ以上の結末はない。それはそれで良いのだと思う。ただ俺には復活というものがよくわからないのだった。

話は飛ぶけど、聖書に描かれる奇跡についても、自分は信じるとか信じないという問い自体立てたことがない(でもカラマゾでアリョーシャが「カナの婚礼」が好き、というエピソードは妙に好きだな。アリョーシャ、かわいい)。ただしそうした文脈ではない「奇跡」そのものについては、起こりうるもののような気がしている。いやそうなると「奇跡」の定義が必要になってくるのですが、これもようわからないので省略。なんせ奇跡は起きると。起きてもおかしくはないだろうなと。問題は、奇跡が起きた後も人生は続くということだ。そして奇跡と悲劇って実は表裏一体なんじゃないの? ……といったことは、この劇とは全然関係ないのでここではふれませんが、その手のことを考えさせられる体験としても、見に行って良かった。

清岡役を、同じ場所で見た『棟梁ソルネス』のソルネス役をやっていた柳本達也が好演。すねたような顔つきとなで肩が、社会主義運動の夢打ち破れ、いまやすっかりニヒリズムの底に沈んでしまった男のやさぐれた雰囲気をリアルに演出している。俺この人好きだわ。

こういうお芝居は闇の中に石を投げるようなもの。大変失礼ながら、理解も評価も人気も、もちろん利益も得辛いだろうと思う。でもやるしかない。まるで自分に言い聞かせるように。やるしかない。
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2009年02月08日

「棟梁ソルネス」

昨日は午後に「M」四稿…じゃなくて三稿提出し、精も根も尽き果て、一時間寝て新宿国際名画座で『本番オーディション やられっぱなし』(佐藤吏監督)。女優をかわいく撮ろうという意気込みがあった。その後、国映「金村くんを囲む会」。金村さんはこの映画の脚本家。さくら水産閉店まで。途中から意識死んでた。西尾監督ごめんなさい、さすがにオールナイト無理でした…。

今日は「イプセンを上演する会」による「棟梁ソルネス」。このイプセン後期を代表する戯曲は「目に見えるもの」より「目に見えぬもの」に多くを預けて生きているような人間にとっては、もう「ヒィヒィ」と身を捩らせたくなるような大傑作。リアリズムを基調としながらも、ちょっとぶっ飛んだ人物設定(ロリータであり小悪魔でありファム・ファタールであり妖精であり狂信者でありその実ソルネス自身である、すばらしきヒルデ!)、見る人によっては頭がおかしいとしか思えないであろうトロル(魔物、あるいは妖精、あるいは無意識の底に蠢く種々の欲望や暴力)との共生やら、夫婦関係の深淵やら、建築=創作行為の根幹的な姿勢をめぐる葛藤やら、若い世代から追い落とされるベテランの不安やら、因果応報やら、まあ、あきれるくらいあらゆる主題がぶちこまれ、巧みに織られ、きっちり語られ、最終的には「神」へと挑むソルネスの墜落劇に結実する。簡単に要約できませんわ、こんなの。

肝心の舞台は……いや面白かった。舞台となる北欧を律儀に再現したようなウッディーな美術が目を引く。ソルネスを演じた柳本達也、劇のキモとなるヒルデを演じた小川恵子、この両者の一生懸命な熱演が二時間四十分の上演時間をちゃんと支えていた。最初彼らが舞台に登場した時は「若すぎるだろう…」あるいは「若くなさすぎだろう…」と正直思ったりもしたのだけれど、彼らなりのキャラクター造形に揺らぎがなくて、自然と受け止めることができた。特にヒルデ、良かったです。今以上に自由奔放な演技でも良かった気はしましたが。魅力があったので。

良くも悪くも(ホントに良くも悪くもだと思う。個人的には演技者にもっと自由を与えて良いように思う)ケレン味のない演出なので、二幕などは少々ダレた(原作でもちょっとダレる)。けれど、三幕目は幕開けからエンディングまでずっと手に汗握った。ここぞとばかりに漆黒の上着を纏ってソルネスが現われ、彼が舞台を去り、一同が彼の運命の結末を見てしまうあたり。わくわく、ぞくぞくした。こうでなくちゃ。

もちろんそれは、イプセンの戯曲の途轍もない強度に依る部分が大きいんだけど、やっぱナマの舞台で見ないとその戯曲への理解って絶対に広がらない。おいらはこの方々のお芝居を、完全に「勉強」として見ている。個人的にはものすごく重要な勉強。でも帰り道、環七通りで強風に煽られながら「いやぁ、良かったな」と呟いてしまったのだった。難しいこと考えずに普通に楽しんでいた。これからもがんばって公演を続けてほしいものです。
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2008年10月28日

『ダミアン神父の生涯』

シナリオ作家リレー日記に、『ダミアン神父の生涯』(西田正出演、花島宣人演出)のレビューを書いています。

http://scenariokouza.blog74.fc2.com/

井土監督のおいらの紹介文がカッコ良くて、もうね、今後二度とこんな素敵な紹介をされることはないと思いますわ、ホント。感謝です。
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2008年10月10日

『稲妻』(ストリンドベリ作・花島宣人演出)

アクターズ・ジム研究公演。中板橋の新生劇場にて。

ストリンドベリの芝居を2000円ぽっち(予約で1800円)で見られるという、大変喜ばしい試み。

ストリンドベリはイプセンのライバル作家にして、オカルティズムやら錬金術やらにのめりこんでキチガイ扱いされた、ベルイマンのフェイバリット作家。ベルイマンは祖国で飽かずに何度も彼の芝居を上演したらしい。「令嬢ジュリー」「死の舞踏」「父」など、代表作と呼ばれるものが載った全集は読んだけど、図書館に眠っていたそれは、カビ臭く、埃だらけで、アレルギー持ちにとっては大変つらい読書だった。そのこともあって、こういう上演の機会は非常にありがたい。

穏やかな風情に微笑みを貼りつけた老紳士。だがそれは繕われたものにすぎず、達観や枯淡の境地にはほど遠い。彼は自分を捨てた元女房への憎悪を人知れず募らせ、その女房が突然現れ、彼女が不幸な境涯であると知るや、憐れみという名の享楽に意地悪く耽溺する。彼女も彼女で、元夫の家で女中として働く若い娘に嫉妬の炎をメラメラと滾らせる。ここには完全な人間などいない。時折ギラギラッと閃光を放つ稲光が、年齢を重ねても決して枯れることのない人間の生々しい負の感情を象徴している。

万事きれいに納まっていく終盤が物足りないが、クライマックスに用意された、ベルイマンにも絶大な影響を与えたと思しい、目をそむけたくなるような男女の罵りあいが気持ちよかった。

ただ……芝居としてはどうなのかな。演技・演出がカチッとはまる瞬間が、最後までなかったような気がする。俺が見たのが初日の初回ということで、ないものねだりなのかもしれないけれど、もう少し、うねりというか、緩急があっても良かった気はする。

特に主人公の老紳士役を務めた井岡薫という役者さんは、髪の毛を剃りあげ、身のこなしに律儀さと老いとを注意深く刻みつけ、丹念な役作りをしたと思うけれども、見る者の背筋を凍りつかせるような底意地の悪さに欠けている。もっと彼のキャラクターの悪辣な部分に踏み込んで、激越な表現に挑んでも良かったんじゃないか。それが必要な役柄だと思ったのだが。

女優陣はメインの久保田涼子、月尾由佳、どちらも良かった。顔立ちが劇の世界観にぴたりとはまっていた。前者は「年老いた」という役の割に、あまりにも若すぎではあったが。

と、偉そうなことを言っているわけですが、個人的にはすばらしい企画だと思いました。もっともっとこういう芝居をたくさん見たい。ニナガワのシェイクスピアも二本くらい見て、面白かったけど、高すぎるし、あんな大がかりな演出やスターやアイドルなんて別に見たくない。50人も入ればいっぱいになるような小さな劇場で、1000〜2000円くらいの価格で、古典演劇をたくさん見たい。だからこういう上演は凄く嬉しかった。

夜、シナリオ直しが始まる。

「オナホールのテンガって知ってる?」という話に始まり、「で、テンガの話に戻るけどさ…」で終わった。

結論。テンガ、すごく良いらしい。

http://www.tenga.co.jp/
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2008年08月03日

『小鳥の水浴』(レナード・メルフィ作、演出:かわさきひろゆき)

『小鳥の水浴』(レナード・メルフィ作、演出:かわさきひろゆき)

うーん……。

俺は05年にシネマアートン下北沢で見た里見瑤子版に感激し、本作の戯曲を翻訳した池島ゆたか監督による映画版『半熟売春 糸ひく愛汁』にも強く心を動かされた。だから、映画版でヴェルマを熱演した日高ゆりあの初舞台となる本公演も非常に楽しみにしていた。しかし、心に何も残さないまま芝居が終わってしまった、というのが正直なところ。『小鳥の水浴』って芝居はこんなもんじゃないはずだという思いが捨てきれない。

前回の感想はこちら↓
http://zenbar.seesaa.net/article/4998384.html

演出は05年の時と同じかわさきひろゆき氏。フランキー役は前田万吉。この芝居に接するにあたって、いくつか忖度すべき状況があったとは思う。第一に、八時半の最終回に駆けつけると、すでに満席で、主催者側が急きょ、本来予定になかった九時半の回を設けたこと。俺が見たのはその特別回だった。役者陣は喋りっぱなしの一時間の芝居を演じきった後、15分程度の休憩を置いてすぐに同じ芝居に取り組んだわけで、疲れもひどく溜まっていたことと思う。また、高円寺稲生座という劇場は、映画館であるシネマアートン下北沢とは比較にならぬほど狭く小さな舞台。当然、役者の動きも最小限に抑え込まれてしまう。

そうした悪条件を慮るとしても、演技、演出にさえ、何か「確信」を持ったものがなかったという気がする。台詞を噛むなど瑣末なことだ。もう一歩踏み込んだものが、あらゆるものに必要だった気がしてならない。その「もう一歩」というのは何だろう。結局「たましい」とか「精神」とか抽象的にしか言えないけれど、そういうことなんだろうか。フランキーは単に「やりたいだけ」の男ではない。男だから「やりたい」と思う程度のことだ。しかしどうしても彼の下種な部分ばかりがクローズアップされていたように思える。日高ゆりあは初舞台とは思えないほど熱演していた。しかし、映画版のクライマックスで見せた、涙を誘う感情の迸りが形だけに終始してしまった気がする。芝居を見ている間中、ずーっと悶々としてしまった。演劇の難しさについて考えさせられた一夜だった。そしてハヤカワ演劇文庫は、いつでもどこでも手に入るような戯曲ばかり文庫化せず、『小鳥の水浴』を書籍化してください!
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2017年04月26日

『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

中板橋イプセンスタジオで『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)見る。

『天国への遠征』はマイ・フェイバリット作家・椎名麟三作の戯曲。『塩狩峠』は三浦綾子原作の小説を、朗読劇風にアレンジしたもの。どちらも面白かった。

前者は椎名麟三のユーモアとヒューマニズムと「ほんとうに生きる」ことに対する真摯な探求心に打たれ、後者は純度100%宗教劇でありながら、その力強さにはやはり心動かされた。

ただ、後者はどこまでも信仰や自己犠牲の尊さを訴えた作品なので、場が感動的に盛り上がれば盛り上がるほど、批評精神旺盛な観客には受け入れがたいものに映るだろう。「伝道」が主目的の芝居と言えなくもないので、メッセージがストレートな分、引く人は引く。自分はこうした芝居の作劇に興味をひかれるクチなので、いわゆる「感動」とは違った意味で、感銘を受けた。「一粒の麦」ってモチーフ自体がほんっとに好きなのよ。

でもやっぱり椎名麟三先生だなぁ。あの人の世界観、好きだわ。後者に比べると、とても知的な作品だと思う。でも知的にならざるを得ない人の悲しみも、ちょっぴり感じさせるのだな、麟三先生って人は。「純粋」を生涯かけて追求し、自らのアイデンティティとする学生と、「愛」をアイデンティティとする売女、「信仰」をアイデンティティとする老婆。この三人が死後の世界で「悪魔」と呼ばれるむさくるしい爺さんに出会うって話。みんな、そのアイデンティティの内側に閉じこもって生涯をすごしてしまっていただけ、という展開が何ともぐっとくる。

だから、信仰の美しさを描いた『塩狩峠』で号泣した後、それに対する懐疑のまなざしを投げかける『天国への遠征』で、はっと我に返り、悶々と自問自答しながら帰路に着く、というあり方が俺としては面白いんだけど、残念ながら上映は『天国への遠征』が先なのだった。
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『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)

中板橋イプセンスタジオで『天国への遠征』『塩狩峠』(キリスト伝道劇団)見る。

『天国への遠征』はマイ・フェイバリット作家・椎名麟三作の戯曲。『塩狩峠』は三浦綾子原作の小説を、朗読劇風にアレンジしたもの。どちらも面白かった。

前者は椎名麟三のユーモアとヒューマニズムと「ほんとうに生きる」ことに対する真摯な探求心に打たれ、後者は純度100%宗教劇でありながら、その力強さにはやはり心動かされた。

ただ、後者はどこまでも信仰や自己犠牲の尊さを訴えた作品なので、場が感動的に盛り上がれば盛り上がるほど、批評精神旺盛な観客には受け入れがたいものに映るだろう。「伝道」が主目的の芝居と言えなくもないので、メッセージがストレートな分、引く人は引く。自分はこうした芝居の作劇に興味をひかれるクチなので、いわゆる「感動」とは違った意味で、感銘を受けた。「一粒の麦」ってモチーフ自体がほんっとに好きなのよ。

でもやっぱり椎名麟三先生だなぁ。あの人の世界観、好きだわ。後者に比べると、とても知的な作品だと思う。でも知的にならざるを得ない人の悲しみも、ちょっぴり感じさせるのだな、麟三先生って人は。「純粋」を生涯かけて追求し、自らのアイデンティティとする学生と、「愛」をアイデンティティとする売女、「信仰」をアイデンティティとする老婆。この三人が死後の世界で「悪魔」と呼ばれるむさくるしい爺さんに出会うって話。みんな、そのアイデンティティの内側に閉じこもって生涯をすごしてしまっていただけ、という展開が何ともぐっとくる。

だから、信仰の美しさを描いた『塩狩峠』で号泣した後、それに対する懐疑のまなざしを投げかける『天国への遠征』で、はっと我に返り、悶々と自問自答しながら帰路に着く、というあり方が俺としては面白いんだけど、残念ながら上映は『天国への遠征』が先なのだった。
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