2010年12月21日

本日夜、ポレポレ東中野で井土紀州監督と『ピラニア』トークです&『私のマルクス』(佐藤優著)がべらぼうに面白かった件

■『ピラニア』はポレポレ東中野21:00からの上映、井土紀州監督とのトークは上映後です。みなさまよろしければお越しくださいー。

http://www.mmjp.or.jp/pole2/

場所:ポレポレ東中野

■最近読んでめちゃくちゃ面白かったのは佐藤優『私のマルクス』。著者の同志社大学神学部時代を描いた青春期、というフォーマットではあるものの、彼の世界観を決定づけた「神学」に導かれてゆく過程を丹念に描いた作品。学生運動の体験を描いた青春の手記だが、神学入門、読書案内の顔もあり、信仰告白の書でもあり、日本人とキリスト教というテーマを、神学部の小さな世界で描いてもいて……とにかく自分にとってこれほど興味深く、美味しい作品もなかった。

■それにしても「私のマルクス」というタイトル、出版当時からものすごく気になっていた。言うまでもなくマルクスはあらゆる宗教・信仰と対立する。だが佐藤優は生まれながらのクリスチャン、しかも厳格で知られるカルヴィン派の家庭に生まれ育ち、その信仰はついに一度も揺らいだことがないという。では、そんな彼がなぜマルクスに惹かれ、学生運動にのめり込んだか。そして重要な問いとして、マルクスとイエス・キリストを繋ぐ回路はあるのだろうか。佐藤優は青春を生きる場所・神学部で両者の仲介者となる。彼がその可能性を探るために使うのが、アナロジーだ。それってイエスの「たとえ話」であったり、神は自分の似姿として人間を作ったとする、キリスト教的発想に深く繋がってるんじゃないのかな。その辺、具体的に突っ込んでいきたいが、時間がないので割愛する。

■マルクス主義の視点から聖書/宗教を読み解く、あるいは聖書を援用、恣意的に使用した論考は多いはずだけど、本書は信仰の側からマルクス主義を読み解くという側面がある。もちろん、側面があるというだけであって、本格的な論考ではない。そんなものならば俺なんかお手上げだ。結果的に自分に伝わったのは、神学という「虚学」がとてつもないスケールを持つ魅力的な学問であるということ。これはそのことを示唆する書物だということだ。

■この本で佐藤優の信仰の実相なんてものは見えてこない。信仰の論理、神学の論理だけが見える。というか、示唆される。でもそれで充分だ。彼は信仰を広める意図もたいしてないし、はなっから万人に理解されることを期待していない。それがあらかじめ救済される者は決まっている(選ばれない者もいる)、とされる「予定説」を生きる者の筋なのかもしれない。佐藤優は長々と本文をしたためた後、自分は一度もマルクス主義者になったことはない、と告げて作品を終わらせるのであった。
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2010年09月22日

佐藤泰志作品集と映画『海炭市叙景』

佐藤泰志作品集と映画『海炭市叙景』

つい先日、映画化された『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)を、ひと足先に試写で見せて頂いた。脚色の技法に目を凝らしていたせいか、冷静に接したとは言い難い。しかし大変に良い映画だったと思う。見た直後は感想を述べづらいが、数日経つと、映画の登場人物たちのちょっとした表情や、仕草や、背中や、匂いや、生活空間の光や、街の光景が、ふっと脳裏に蘇って来る。函館をモデルとした海炭市で、あんな男が生きている、ああいう女が生きている、そんなことをしみじみ思わせる。それは、映画が何かに勝利しているということだ。こんな映画がこの時代に生まれて良かった。

プロ/アマ混合だという出演陣のリアルな存在感。大きな出来事も事件も起きず、人間の置かれた状況と、そこでの日常的な行動のみを綴る、原作通りの世界。ここでいわゆる「ふつうの人」を黙々と演じ切った俳優たち、そのすべてがすばらしい。いわゆるお芝居の技量ではなく、その人の人生そのものが問われるような独特の映画世界で、ここに現われ出た人たちは、みな、人としての強い魅力を持っていると思った。贔屓するわけじゃないけれど、三浦誠己さん扮する孤独な青年のたたずまい。ひときわ印象的でした。

さて、このところ時間を見ては原作者・佐藤泰志の作品集をだらだらと読み耽ってきたわけですが、改めて出会えてよかったと思う日々なのだった。心の隙間を埋めてくれる何かがあった。映画の試写を見た翌日、すなわち昨日だが、重いハードカバーの作品集を手に、江ノ島に向かった。まったく休みのとれなかった今年の夏を、遅ればせながら終わらせたかったし、人は盛夏を楽しむべきだという、佐藤泰志作品世界からの静かな叱責を聞いた気がしたからである。

作品集に収録されたものがすべてではないが、それでも断言できるのは、氏の作品はみずみずしい青春小説であるということだ。観念をもてあそぶ青臭さや、疎ましい自意識がない。よく冷えた透明な水がさらさらとページに流れ続けている。その清澄さは簡潔で明晰な文体によるものだ。女と恋に落ちても、人が殴られて血が噴き出しても、頭がおかしくなった肉親がいても、文体は平静であり続ける。その小説としての静かな在り方に、優しい魅力がある。また、生活者として生きることに誇りを抱き、詩人や作家として世界を見つめることに恥らいの意識を抱いているところがある。そこに自分は深く共感する。

彼の小説に登場する青年は、夏となればビール片手に海やプールに繰り出し、出会ったばかりの女の子と簡単に関係を結んでしまう。激しさや、高ぶりや、怒りは、表立っては出てこない。その軽やかな青春模様は、『風の歌を聴け』を想起させる部分があるけれど、村上春樹との決定的な違いは、解説・福間健二さんの秀逸過ぎる解説の一文によって恐ろしく的確に言い表されている。

「しかし、佐藤泰志の表現は、中上健次のような、神話的な時空への展開をもたないし、また、村上春樹のような、ニュートラルな身ぎれいさにむかうこともない。ひとくちにいえば、等身大の人物が普通に生きている場所に踏みとどまっている。虚構への飛躍度が低いのだ」

彼の小説を包む美しさ、読んでいる時間の安らぎは、そんなところからきているのだと思う。絵空事を描かない、地に足のついた世界を描く、という姿勢は終始一貫している。

以下、簡単ながら佐藤泰志作品集(クレイン)に収録された小説についての雑感を記す。詩とエッセイについては、特に理由はないが、触れていない。

作品集の三分の一を占める『海炭市叙景』については下記に書いたので、ここでは割愛する。

http://takehikominato.seesaa.net/article/161877403.html

『移動動物園』は、いつの日か移動動物園を作って全国を巡回しようと夢見る園長のおじさんの下で働く若者の物語。これは良かった。園長の恋人である若い女との、三角関係とまでも言えない淡い関係性(まるで映画『汚れた血』のような)が、少しずつ変容していく。しかし決定的な変化が訪れるわけではない、そのバランス加減がいい。ささやかなエピソードの積み重ねで彼らのモラトリアムな日々を綴るが、構成も明快で、その日暮らしの青年の心理も繊細に描かれている。主人公の達夫と女が、園長に命じられて、大きくなりすぎたウサギや皮膚病のモルモットを殺す描写が痛々しい。痛みには理由がある。女は園長の子を孕んでいるのだ。充実した読後感があった。

『きみの鳥はうたえる』。バイト先で知り合った同世代(21歳)の男と暮らす主人公。彼は勤め先の女とねんごろになるが、彼女と同居人の彼との間で、淡い三角関係が起動する。働いて、飲んで、遊んで、喧嘩して……70年代の東京郊外を舞台にした作品で、ミンガスの死から物語は始まるが、現在の小説と言われても納得してしまうような、淡くて透明な感覚が横溢している。終盤の展開がやや悲劇的に過ぎるきらいもあるけれど、とにかく読んでいて気持ちが良かった。

『黄金の服』。大学の生協で働く作家志望の青年と、その友人や女性たちを描いた作品。酒飲んで、あとはプールや海で泳いでいるだけの夏休み。血なまぐさい事件や人の暗部の露出、意外な結末など、多少「虚構」に寄りすぎたきらいもあるけれど、カミュ『異邦人』における海の描写みたいな自由さ、幸福感が最後まで続く。作中、イメージフォーラムやヒューバート・セルビーJrの『ブルックリン最終出口』なんかが自然な形で登場し、80年代初頭のマイナーな若者文化がどのようなものであったかを窺わせる。アパートの大家が飼っている死にかけの犬や、静岡の海岸で主人公たちが拾う蟹など、細かな配置、描写が生きている。それからセックス。この作家の性描写は、肩肘張ったところがなく、さらさらしていてなじみやすい。

『鬼ガ島』。子持ちの女と別れ、養護学校の教師をしている女と暮らし始めた主人公。しかしその女は過去に実兄との関係があり、そのことで今なお苦しんでいる。次の『そこのみにて光輝く』もそうだが、どことなく小説空間に歪みが出始めた印象。その歪みが、あまり愉快な形で気持ちの中に入ってこなかった。もっと正直に言えば、微かな嫌悪のようなものを感じてしまった。露悪的と言い換えてもいい何かがある。近親相姦も障害者の性欲処理についての話も、それほどしっくり小説世界になじんでいない気がする。かといって、悪意を感じるわけではないし、無理をして偽悪的なふるまいを装った痕跡もないけれど、いやな感じがどうしても拭えなかった。もしかすると生々しすぎるのかもしれない。

『そこのみにて光輝く』は、函館の海岸で高山植物を売って暮らす男と出会った主人公が、男の姉と恋愛関係を結ぶ話。被差別部落の問題が絡んでおり、男の家庭では寝たきりになっても性欲の尽きぬ老父が、妻や娘にその処理を委ねるといった描写が出てくる。一方では達夫の組合活動への無関心・決別、そしてささやかな自立という厄介なモチーフも抱え込んでいる。虚無的な青年が海に戯れ、女と恋に落ちるあたり、例によって『異邦人』のような透明な情緒があって読ませる。ただ、被差別の家庭の描写がどことなく図式的に感じられた。三島賞の候補だったようだが、中上健次の強い反対によって頓挫したという。

『大きなハードルと小さなハードル』と『納屋のように広い心』は、秀雄という人物を主人公にした、私小説のシリーズらしい。妻と子と河原で遊ぶ秀雄は、アル中の症状でちょっとした事件を起こしたばかり。妻とのぎこちない会話の果てに、娘がとらえたザリガニがつつましい救済の光景を現出する。続く『納屋のように広い心』は、家を突然出て行った妻と娘を追った秀雄が、海峡を隔てた街で二人を探り当て、一軒のホテルに泊まる話。安宿のはずが、手違いから妖しげなラブホテルの一室に一家は宿泊する。その可笑しさが、一家を闇から救い出すのである。鬱屈を抱えた人間が、心の旅の果てに他者によってちいさな救いを見いだす、という物語の型は、梶井基次郎やつげ義春にも共通する。というか、これって日本の近代小説に数え切れないほどある類型なのかもしれない。簡潔で読ませる二作品だが、型通りという物足りなさも残った。

『星と蜜』は同級生の結婚のために帰郷した男の三日間を描いている。これは良かった。八年ぶりに帰郷するという後ろめたさ、自分が不在の間に様相の変わってしまった人間関係への戸惑い。ストレンジャー同士の女との突発的な、だが、妙に説得力の漂うセックス。話の展開に無理がなく、筆致は落ち着き払っていて、青年と大人とのはざまに立たされた男の弱った心理がしっかり感じられる。古ぼけた映画館や海の家、射的場、母が勤める旅館といった舞台も効果的。それにしても佐藤泰志の小説は、実に海辺の小説であり、北の国の夏の物語であるなあ、と嘆息。北海道を舞台にしたものは、冷たい夏の空気がどこまでも漲っていて、単純に心地良い。北の人間だから、盛夏というものの価値が高いのだろうか。作品集の中でもかなり好きな作品。

『虹』は遺稿となった作品らしい。奥まった村の資料館に務める25歳の青年。彼はたいくつな村をひそかに出て行く決心を固めているが、ある女との出会いによって考えを変える。その一日を描いているが、話の展開がいささか性急に過ぎる気もするし、文字通り「虹」が現出するラストは、感動的ながらも、どことなく収まりが良すぎる。しかし、描かれる人間心理に無理がないため、太い虹がかかったとき、自然にその希望の風景を受け入れることが出来た。

偉そうなことを色々書いたけれど、やっぱりこの作家の小説は居心地が良い。『海炭市叙景』以外で、特に好きだった作品は『移動動物園』『黄金の服』『星と蜜』の三本でした。でも他の作品もみんな良かった。一見地味だし、個性的な文章にも見えないため、簡単に書けそうに思われるかもしれないが、この透明感を可能にしているのは「才能」と呼ぶほかない何かであると思う。

かつて中上健次が誰かとの対談で、三島由紀夫の『仮面の告白』に流れている「きらきらしたもの」、あれが才能だと喝破したことがある。その「きらきらしたもの」を持ち合わせていた作家だったんじゃないかという気がしました。いずれにせよ、映画がなければ出会うことのなかった作家である。映画『海炭市叙景』は是非成功してほしいと思う。

http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B3%B0%E5%BF%97%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E6%B3%B0%E5%BF%97/dp/490668128X/ref=sr_1_1?s=gateway&ie=UTF8&qid=1285188954&sr=8-1
佐藤泰志作品集
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2010年09月08日

『海炭市叙景』(佐藤泰志著)

『海炭市叙景』(佐藤泰志著)

映画化作品への期待値があまりにも高いため、10月の文庫化を待たずに「佐藤泰志作品集」(クレイン)で読んでしまった。

先に書いておくと、『海炭市叙景』は第一章「物語のはじまった崖」9編、第二章「物語は何も語らず」9編の全18編からなる。ここまでが冬と春で、その後、夏と秋の物語がそれぞれ9編ずつ、計18編、書かれる予定だったという。

だがそれはかなわなかった。1990年10月9日、佐藤泰志は41歳で縊死したからである。

『海炭市叙景』の舞台・海炭市は、著者の故郷である函館をモデルにしているという。連作短編集だが、この18編にそれぞれ直接的な関連はない。ただ、ある章の主人公が心に思い浮かべている人物が、次の章の語り部となったり、街で起きた事件の情報を住民たちが共有していたり、といった微かな繋がりはある(ない場合がほとんどだが)。また、たとえば路面電車の運転手が語り部を務めるエピソードのずっと後に、職安の窓口で働く男を主体とした話の中で、建物の前に路面電車が停まったりすることがある。それを運転しているのが前出の彼なのかどうかはわからないが、少なくとも読者は一瞬、あの運転手のことを脳裏によぎらせる。

そのような形で、さまざまな職種や立場の登場人物が入れ替わり立ち替わり現われる。さらには作者による丁寧な情景描写の連なりによって、次第に人口三十五万人の海炭市が立体的に浮かび上がって来る仕掛けだ。

その始まりを告げる第一章の1「まだ若い廃墟」は、お正月だというのに揃って失業者となってしまった若い兄妹の話だ。早くに両親を亡くし、貧しいアパートで寄り添うように生きてきた兄妹は、苦境を笑い飛ばすように、部屋にあるありったけのお金を集め、雪深いロープウェイへと向かう。観光客に交じって初日の出を見るためだ。そのありったけのお金は、たった二千六百円である。だが、一体何が起きたのか、妹は朝の近いロープウェイの待合室で、どこかへ消えた兄の帰りをぽつんと待ち続けるのである。「まだ若い廃墟」の最初の一行は「待った。」だ。この一行、そして最初のエピソードが、『海炭市叙景』全体を覆う仄暗いトーンを決定づけ、人間は“それ”を「待っている」だけの存在であるという認識が徹底される。自分はこの短い作品の最初の数ページを読むだけで、ぐっと心をつかまれ、作者への全幅の信頼を寄せながら、18編を最後まで読み通すことが出来た。

この作品の最大の魅力は簡明な文体にある。いや、簡明に見せるために、作者が紡ぐ一語一句に対する恐ろしいまでの執念というべきか。文章自体は読みやすく、透明感すら漂わせているが、その背後には小説家が歯を食いしばり、軋ませながら、執筆に取り組む姿勢がひしひしと伝わって来る。

どのエピソードも、いわゆる「劇的」なことは何一つ起こらないし、起きたとしても、それは他のエピソードに比べれば、といった程度のことでしかない。多くは、ある短い時間に起きる個人の心理の変化を綴っているだけである。そこにはみじめな人間もいる。卑小な人間もいる。ズルイ人間もいる。作者は誰のことも裁きはしない。小説は倫理を孕む、というか、倫理そのもののような性格を持つが、誰かを裁くために書くものではない、という信念は終始一貫している。

底辺労働や貧しい暮らしに身を置く人々の生活が、その匂いや、体温や、肌触りを伴って丹念に描出される。中流の人物もいる。子どももいれば老婆もいる。現実にさらけ出されず、他者との会話を成立させず、したがって意味を形成しない、終わりなきモノローグが、人々の暮らしぶりや生きざまを、いま俺がこれを書いている最中、窓の外で降り始めた初秋の雨のように心に沁み込ませてゆくのだ。

ところで自分は36歳である。東京で暮らし始めて18年が過ぎた。人生の半分を故郷から離れて過ごしてしまったということだ。日々の忙しさにかまけているせいか、今では過去のことを思い出すことも少ない。だがこの作品を読んでいる最中、ずっと故郷での18年間を想起し続けていた。地方都市の生活というものを、ごく自明のものとして受け入れていたあの日々。懐かしさと、多少の疎ましさを感じさせる古い記憶。高校時代、新聞配達をしていた頃、夕方から夜にかけて集金に訪れた家々の玄関の向こうに、それぞれの暮らしがあった。この作品はその時垣間見た人々の小景を妙に思い起こさせた。今にして思えば、あの頃は孤独だった。

第二章に至ると、街の変貌が小説世界に空疎さを忍ばせ始める。産業道路の両脇に更地が増え、山が切り崩され、首都(札幌らしい)から移り住む若い者たちが増え、海炭市はどこにでもある画一化された風景を持つ、無機質な地方都市になってゆく。それに抗う者もいれば、希望を見出し、喜ぶ者もいる。第二章の18編はどれも、人物の感情の密度という点では希薄化された印象を与える。それなのに、虚無感や、苛立ちや、鬱屈といった、それまでは抑制してきた感情の表出が、次第に止められなくなっていく予兆を湛えている、そんな感じがする。

しかしそれは劇的な何かを外部にもたらすわけでもなく、大きな空虚さの中へ、不毛な振舞いとして放置されているようなさみしさを伴う。もしかするとそれは、80年代の終わりと、90年代の到来を意味しているということなのかもしれない。

物語は第二章の18「しずかな若者」で(少なくとも)幕を閉じる。同じ型の墓石が三千以上並ぶ墓地の下で、ひとり夏を過ごす若者の物語。若い娘との出会い。通いつめるジャズ喫茶。気ままな別荘暮らし。まるでエリック・ロメールの映画のようだ、などと愚にもつかぬ印象を持っていた矢先、文中にジム・ジャームッシュの名前が不意に出てきた。

亡くなった作家と、ジャームッシュの名前に憧れを抱いた高校生の自分が、作家の晩年、確かに同時代を過ごしていたことが、妙に生々しく感じられた。幕切れの眩いような鮮烈さが、「まだ若い廃墟」の「死」のエピソードと対照的に配置されていた。心に鋭い痛みが走った。

自分は恥ずかしながら、熊切監督によって映画化されなければ、この良質な文学作品を紡ぎあげた佐藤泰志という作家の存在を知ることもなかったと思う。『海炭市叙景』という小説を読むこともなければ、全集の解説を福間健二さんが手掛けておられ、福間さんが報われぬ表現者の守護天使のような存在であることを痛感させる、美しい文章を目にすることもなかったに違いない。

映画は時に失われた魂を招聘する。
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2010年04月11日

『北回帰線』ヘンリー・ミラー著

年末からこっち、かなり慌ただしく日々が過ぎて行き、先週の『イサク』上映終了でひとまず落ち着きを取り戻した。とたんに気力・体力を根こそぎ奪うような体調不良に見舞われた。どっと疲れが出た。

とはいえ、ぼんやり何もせずに過ごすほどの、金銭的・時間的・精神的余裕もないので、地道にシナリオの直しや内職をこなしつつ、長らく机の上に放置してあった『北回帰線』を手に取った。

最初にこの書物を開いたのは、確か高校生の時だったと思う。いや、中学生かもしれない。よく覚えていない。ただ、自分の人生のずいぶん早い段階からこの書物は傍にあった。ことあるごとにその存在、影響を意識させられた。オレンジ色の表紙と魅惑のタイトル。その分厚さ。ぎっしり詰まった情熱の言葉……。

のっけから、アナイス・ニンによる強靭な讃辞に煽られた。たかが数ページの讃辞を読み通すのも十代の自分には骨だった。「ぼくはヴィラ・ボルゲエゼに住んでいる」という一文に始まる、熱に浮かされたような調子の文体にあてられ、ぐいぐい引き込まれたものの、夥しい情報量、豊穣な語彙にとっつきにくさを感じ、十代の間に最後まで読み通すことはかなわなかった。以来、何度も何度も手にとってはその落ちることのない高いテンションに魅了され、煽られてきたが、最後まで読み通したのは二十代も半ばを過ぎてのことだった。

30年代のパリにたむろする出鱈目なボヘミアンたちの群像を活写しつつ、世界そのものに対する愛と情熱と怒りとアンチテーゼをぶちまける狂騒の果て、セーヌ川のほとりで、この偉大な書物は静かに幕を下ろす。ヘッセの『シッダールタ』さながらに、物事が絶えず流れゆくこと、それ自体に耳を澄ませることによって得られる、精神の澄みきった境地――。

今でも、早稲田南町のボロアパートで、夏の昼下がり、そっと最後のページを閉じたときの深い感銘は容易に忘れ難い。長大な物語を読み終えた自分へのねぎらいももあったろう。長年の宿題を片付けたという達成感もあった。しかし、これはひとつの宇宙ではないかという、大仰な感動がそれらを完全に上回ったのは確かなことだ。これを読まずに人生が終わらなかったことを深く感謝した。

文字が大きくなり、読みやすくなった現在のバージョン(新潮文庫版)を数年前に買い、気が向いたときにところどころ読んでいたが、きちんと読了に至ったのは実に十年ぶり。今読み返してみると、難解と思われるような観念はなく、尽きせぬ饒舌とは裏腹に、鼻持ちならぬ衒学的な姿勢などそこにはなかった。皆無だ。

すがすがしいほどに、性と生、生命それ自体の謳歌が奏でられているに過ぎなかった。僧侶や教会をこばかにする描写もあるにはあるが、キリスト教社会への反発も、著者ヘンリー・ミラーにおいては些事に過ぎず、資本主義社会、アメリカ合衆国、ヨーロッパという風土への批判も風刺も苛立ちも、青筋立ててがなりたてるほどのことではない。すなわちこれは異議申し立ての書ではない。嘲り笑いや、侮蔑や、痛罵や、差別・偏見の言葉に満ちあふれているものの、それはちっぽけな自尊心を満足させたり、無意識に潜む不安や怯えから出たものではない。彼はここで、暮らしを謳歌すること、酒を、食事を、セックスを、友人らとの交わりを楽しむこと、人生を愉快にやっていくことを謳いあげているにすぎない。少なくとも俺にはそう見える。

ここに描かれるヘンリー・ミラーの生活は誠にけっこうなものである。当時パリにうじゃうじゃいたという一文無しのアメリカ人で、友人知人の家を泊まり歩き、金をせびり、目につく限り女の尻を追いかけまわし、あちこちで乱痴気騒ぎをやらかし、仕事は長続きせず、誰かに叱られたり、愚痴をこぼされたり、ヒステリーの炸裂に耳を傾けたりしているばかり。無責任な放浪者でありながら、いやそれゆえに、彼は森羅万象に対してとことん優しい。すべてを楽しもうとしている。貧窮に陥ったり、閉口するようなつまらぬ人物や事態に直面したり、誰かに怒り狂っているときでさえ、どうやら彼は心底愉快な思いをしているらしいのだ。

「いまではぼくは、自分の背後にあるもの、自分の前方にあるものに、一顧もあたえない。ぼくは健康だ。いやしがたいほど健康だ。悲しみもなく、悔恨もない。過去もなく、未来もない。現在だけでぼくには十分だ。その日、その日。今日! 美しき今日!」

これはもう、ファッキン「文学」である。今の自分にストレートにしみこむ言葉だ。

随所に名フレーズが飛び出す作品だが、今さらながらこの作品から受けた影響に唖然とする思いだった。生きにくい世の中だが、ずいぶんこの本から処世術を学んできたような気がする。「作品とはその人自身である」というヘンリー・ミラーの主張(まったくもって賛成である)にのっとって言うと、この作家自身に多くを助けられてきた気がするのだ。

さる百貨店の物流倉庫で働いていた頃、正社員にどこかの大学の文学部出身の男がいた。彼は俺が読んでいる本を日ごとチェックしては、「それはむかし読んだ」「そんなもん読んでるの?」などと余計なコメントを付け加えた。しばしば小説の話で盛り上がりもしたが、本当のところで、彼は、たかが専門学校卒のフリーターが、古典的な小説を読むという現象がどうにも理解しがたいようだった。

彼は他の社員の陰口から察するに、無能であり、ごく控えめに言って矮小な人間だったが、それでも俺は彼が好きだった。彼は、その純粋すぎる心のゆえに、若いうちから文学にかぶれてしまい、現実生活というものをありのままに受け止めることができないのである。そんな悲哀を体全体に帯びていた。そんな人間を嫌いになれるはずがない。映画好きの人間がたいてい脆弱な精神力しか持ち合わせていないのと同じことだ。すなわち親近感を抱かざるを得なかったのだ。

今から考えると、彼のような人物に救済をもたらすのがこうした作品なのではないか。けれども、おそらく彼はヘンリー・ミラーを好くことができないのではないかと思う。この書物の哲学を受け入れるには、少しばかり大人になりすぎていたから。社会人である自分にこだわり過ぎていたから。

月給や、安定した暮らしや、社内での地位や営業成績や、世間的評価、社会的地位がどうしたっていうんだろう。仕事ができないからってなぜ落ち込む必要があろうか。確かに、自分の現在と将来=金に利用され、振り回されるのが現実生活。俺自身そのことはいやってほどによくわかってる。だが、それがすべてではないということを、途方もない説得力と実感をもって訴えかけてくるのが、この作品である。

金のことばかり考え続けていても、それは少しも本質的な問題の解決にはならない。俺はバカみたいに金を稼いできた「社長」と呼ばれる人間を数人知っているが、彼らはビジネス面において冷徹な手腕を発揮しながらも、一方では口をそろえて「金がすべてではない」という。世界の真理なるものに接近しているのは彼らであると俺は思う。

大金が人生を豊かにするのではなく、その人の考え方、生き方が人生を豊かにするのである。実にシンプルなことだ。もちろん、金さえあれば解決できることばかりだというのが、自分の実情ではある。だがさしあたりそんなことはどうでもよい。少なくとも『北回帰線』の世界に浸っている間は、身ひとつで生きていく勇気と力を存分に感じることができた。自分にとって、そんな書物は稀有である。

もはや十代のころの感激をもって読むことはできない。しかし、自分にとって、太陽のような文学、太陽のような哲学があるとすれば、まさに『北回帰線』こそがそれである。これまでも、これからもずっとそうだ。財産とはこういうものである。
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2009年10月01日

『特別な人』(ユージン・オニール作)

『特別な人』(ユージン・オニール作)

二幕の短い戯曲。上演しても一時間くらいだと思うけど、これがすばらしかった。これこれ、こういうこと! すべてがどまん中。

話は単純。幼馴染の船乗り、ケイレブを心から愛し、彼との結婚を二日後に控えた二十歳の乙女エマ。だがケイレブが給水に立ち寄った島で、異教徒の女と一晩だけの過ちを犯したと知った彼女は、その場で婚約を破棄してしまう。ケイレブを理想化し、美化したあまりの深い幻滅。エマを愛するケイレブは、なんとか翻意を迫るが、彼女の決意は変わらない。ケイレブは「他の誰とも結婚しねえ。三十年だって待つよ」と告げる。

それが第二幕になると……

三 十 年 経 っ て い る 。

五十歳となったエマは誰とも結婚せず、孤独な変わり者の老女として侘しい毎日を送っている。ケイレブもまた独身を守り、エマへの思いを貫き通していた。しかしエマにはたちの悪い若い男、ベニーがつきまとい、さびしさから現実感覚を失ったエマは、彼が金をせしめるための嘘のプロポーズを受けてしまう。そこへ、「今夜で三十年経った」とケイレブが訪れる。だがベニーとのありえない結婚を受諾したエマは、ケイレブの二度目のプロポーズを断る。やがてベニーのプロポーズが虚偽であり、あまつさえ「あんたみたいな死にぞこないのばあさんといちゃついたあげくがこのざまだ。娘みてえに顔中塗りたくって、しゃらしゃら着飾りやがってよ!」と罵倒され、ようやく正常な心を取り戻す。だがその時にはもう、ケイレブは首を吊って死んでいるのだ。どうやらエマはケイレブの後を追うらしい、と仄めかされるところで劇は終わる。

なんですかこの小傑作は。現実に対する平衡感覚を失い、自己を客観視できず、彼女自身にしか理解できない、ありえない理想に生きていくエマ。彼女のキャラクターが痛すぎて……たまらない。なんでか知らないけど、俺はこういう人が大好きなのだ。あわれで、みじめで、騙されやすくて、でも極端に繊細で。心の隙間に付け込まれ、もてあそばれた揚句、耳をふさぎたくなるようなひどい言葉で徹底的に傷つけられてしまう、そういう女。彼女を何とか利用しようとするあくどい男と、彼女を救いだそうとして結局果たせない男。こうした関係性、こうした男女観。大好き。たぶん、繊細な者が暴力的な世界で手ひどく傷つけられていく――それが悲劇であると、実感レベルで感じているからだと思う。

本書は法政大学出版局というところから出ている「アメリカ演劇資料集」の「T」。図書館の閉架にあるものを借りてきた。それによると、1920年の初演時、興行的に儲けは出たが批評は厳しかったらしい。本の監修者までもが解説で「単調な一幕目をはぶいて、二幕目から話を展開すれば、もっとまとまりのある作品を得られた」的なことを書いてある。監修したくらいだから翻訳にも関わったろうし、オニールをはじめとするアメリカ演劇に精通した偉い人なんだろうけど、無理解だなぁ、と正直思った。一幕はちっとも単調じゃないし(エマの頑なな拒絶は最後までスリリングだし、机に置かれた物言わぬ聖書の存在はとても大きい)、その美しい無垢な時代があるからこそ、二幕目のあがきと悲劇が胸を打つんじゃん、と。……いやいや、しかしこうした人々の尽力で本書と出会えたのだから感謝すべきである。

作者のオニールは当時浴びせかけられた批判に対して、こう反論している。

「『特別な人』はわれわれすべての中にいる永遠のロマンチックな理想主義者、永遠の敗北者の物語に過ぎない」

「揚げ足取りをする人々が彼女の行動をうんぬんする前に、私と同じくらい彼らの中のエマをはっきり知ってほしいのである」

オニール万歳! 人に見せるというのはそういうことだし、見てもらうってこともそういうこと。ほんとに、そういうことだと思います、ハイ。特に後者の発言が投げかけている問題ってとても大きい。

しっかし、観客と作り手と批評家の関係って、90年前のブロードウェイからたいして変わってないのかな……。
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2009年09月25日

『ダウト――疑いをめぐる寓話』(ジョン・パトリック・シャンリィ著)

はやりのツイッター始めてみた。

https://twitter.com/minatotakehiko

『ツイン・ピークス』のデイル・クーパー捜査官が、自分の呟きをいつもカセットレコーダーに吹き込んでいたような感じだなと。限りなく自我の牢獄に閉ざされた気分。その時その時に得た情報や、情緒を、誰にともなく垂れ流し続ける……こうした「雲散霧消型」の発言形態の方が自分には合ってる。でもすぐに飽きそうだ。

世界はヴェンダース『夢の涯てまでも』を模倣する。


『ダウト――疑いをめぐる寓話』(ジョン・パトリック・シャンリィ著)

原作に先駆けて映画を見てしまったが、失敗したなぁ。戯曲は非常にシンプルなのだ。小児性愛の疑惑をかけられた神父と、彼を追及する厳格なシスターの対立、という構造は同じなんだけど、映画版ではシスターの側に怪しげな「疑惑」を設定してあり、客は神父への疑いと同時に、シスターへの疑いを抱かされてしまう。そうした巧妙な仕掛けはここにはない。だから簡潔だし、それゆえ奥深いと言えるかも知れない。そんなわけで、拍子抜けしたというのが正直なところだけど、映画と舞台の違いを考え抜いたシャンリィの聡明さがなしえた業とも言える。なんせ、戯曲も面白いよ。これから何度も読み返そう。

やっぱり神が劇の背後に立ちはだかる作品はおもしれぇな! 賛同してくれる人少ないけどな! 何がポストモダンじゃ、モダン焼き。
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2009年06月26日

『すべての死者よ、甦れ! 〜池島ゆたかが見た、生きた、ピンク映画傍証50年史〜』(PG.NO.105)

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『すべての死者よ、甦れ! 〜池島ゆたかが見た、生きた、ピンク映画傍証50年史〜』(PG.NO.105)

すばらしかった。全174ページ。熱に浮かされたようにして一気に読んだ。読み始めたら止まらないのだ。ぐるぐると渦巻く猥雑なエネルギー、圧倒的な情報量、何よりもその見事な”語り”の芸に圧されて、笑ったり、泣いたり、興奮したり、唸ったりしながら、あっと言う間に読み終えてしまった。撮影現場の熱気、人間の匂い、男の匂い、女の匂い、性器の匂い、唾液の匂い、獣の匂い、愛と笑い、恋と涙、セックスと別れ……ありとあらゆる要素がギュウギュウ詰めにぶちこまれ、途方もない生命力が横溢した一冊に仕上がっている。豊穣なるドキュメントとして、これこそ全国の本屋で流通させるべきである。「本屋大賞」なんて、ほんらいこういう作品のために存在するんじゃないのかよ! これだけ面白い本はそうそうないぞ。

俳優として現場に入り、監督デビューし、去年ついに100本のピンク映画を撮り切った池島ゆたか監督の半生を尋ねてみると、すなわちそれがピンク映画史になる。60年代アングラ文化の貴重な証言にもなるし、AV業界黎明期の話にもなる。俺みたいな半可通が知らないような、無数のピンク映画が出てくる。ピンク監督たちの名前と横顔がどんどん晒されていく。そしてスクリーンを彩ってきたであろう、裸の女優たちが次々と現われては消えていく。松尾スズキが池島監督の芝居の台本を書いていた話とか、大杉漣、蛍雪次郎といった、今では一般映画で有名な俳優たちの素顔とか、話題には事欠かない。

また本書の中には、今では見ることもかなわないであろう、まぼろしのピンク映画のストーリーや、そのワンシーンが、池島監督による自演で再現される場面が多々登場する。巧みな話芸もあいまって、その見果てぬ映画のことを想像する時間のなんと楽しいことか。「見ることが出来ない映画」は「忠治旅日記」やら「浪人街」ばかりじゃないのだ。

いまだに「ピンク映画とAVってどう違うんですか?」と聞いてくる人がいるので、ごく簡潔に言ってしまうと、ピンク映画というのは、商業映画なんです。いわゆる男女の本番行為を見せるための映像作品ではなく、裸、あるいは濡れ場=セックスシーンを売り物にした35ミリのフィルムで撮られた映画である。従って、ポルノかどうかと言えばポルノなんだろうし、エッチな映画と言えばエッチな映画である。ただし、その枠内であらゆる個性を持った監督たちがいて、一筋縄ではいかない映像表現が許されているので、「ピンク映画とはこういうものだ」とは簡単に言いにくいのである。だから、手前味噌で恐縮ですが、一般映画では成立しにくい「イサク」みたいな超・抹香臭い映画が成立してしまったりするわけだ。

それはともかくとして、何と言っても女優たち。俺は「AV女優」とか「名前のない女たち」シリーズとか、もちろん「女優・林由美香」とか、裸産業に取材したルポや書物が大好きなんだけど、ピンク映画の場合は、それに加えて、映画作り、カツドウ屋の話になるからたまらない。そのことを意識して芝居に目覚める女優もいれば、てんで無頓着なまま演技を続ける女優もいる。

一ヶ月も風呂に入っておらず、風呂に入るとぶわっと垢が浮く女優、監督の家にだらだらと住みついちゃうフーテン、演技なのに本当に欲情してしまい、挿入を求める女優、現場の人間とくっついちゃう女優……。日高ゆりあが初めて母親に自分の仕事を打ち明けるエピソード、佐々木麻由子がピンクの現場を見て、引いちゃって帰っちゃう話、それからもちろん林由美香――。そんな話が20年、30年と遡って語られるわけだから、ピンク映画ファン歴の長い人にはたまらないと思う。

これは男だけが感じる弱い感傷なのかもしれないけれど、聖と俗を体現する彼女たちにはいつも一抹のさみしさが付きまとう。

池島監督の『超いんらん やればやるほどいい気持(next)』を見た人ならわかると思うけど、あの作品には、自らを「映画」と名乗る謎の女(日高ゆりあ)が登場する。映画はその「映画」という女が何者であったかを終盤解き明かしていくわけだが、それは、主人公の映画監督が監督デビュー作に抜擢した女優なのだ。「映画時代」の取材の時にも出てきた話しだけど、新東宝の福原さんの意見によれば、それは一面的には林由美香を仮託した役でもあるわけだ。林由美香を仮託した役というのは、すなわち「映画」と名づけられ得る女優たち、女たちのことなのだ。

からだを売りながら夜の街をさすらう女。そういう風にしか生きることのできない女。そういう女に「映画」を見出した監督は、彼女を自分のデビュー作に抜擢する。だが彼女は、映画で濡れ場を披露した後に、夜の街で客に殺されてしまう。『next』が胸を打つのは、おそらくそれがどこからともなく現われては、パッと一瞬の輝きをスクリーンに刻みつけ、またどこへともなく去っていく、名もないピンク女優たちへの切ないオマージュになっているからである。個人的にもそういう女優さんを知らないわけではないので、あの「映画」の末路には本当に胸が苦しくなった。彼女たちの存在は、ある意味ではこうした業界の暗部とさえ言えるのかもしれない。ましてやその裸身にキャメラを向け、演技指導し、あるいは照明を当て、前貼りを貼り、あるいは演技者としてからだとからだを合わせ、舌を絡め、愛撫しあった関係であれば、尚のこと彼女たちの存在は心に残るはず。この書物には、そうした無数の女たち、女優たちの群像が、あちこちに蠢いている。

……だがしかし。

そうした女たちの哀れさやさみしさや悲しみを、池島監督は湿っぽく語ることを徹底的に拒否している。その存在自体を丸ごと飲み込んで、「ハハハハハ!」という底抜けに明るい笑いへと昇華してしまう。そう、喜劇も悲劇も愛も死もひっくるめて、「人生を楽しむ!」という姿勢が一貫しているのである。必要なのは感傷に溺れることじゃない。斜に構えて達観したふりをすることでもない。生き続けること、映画を作り続けることなのだ!

読んでいてこれだけ元気になれる本というのもめったにない。俺は読書量が少ないので、すぐにヘンリー・ミラーのことばかり持ち出しちゃうんだけど、まさにあの破天荒な生と性の饗宴をここに見出し、ひたすら感動してしまった。

だからさ、死ぬなよ! 人生って絶対面白いから。赤裸々に生きてみようよ。やることないなら映画やってみようよ。そういうテンションがここにはある。今すぐ成人映画館に飛び込みたくなる。今すぐ映画を作りたくなる。「すべての死者よ、甦れ!」ってなんて素敵なタイトルだろうと思う。これは死んでいった人々についての回想録なんかじゃない。常に現在進行形、常に「next one」を追い続ける男の熱いメッセージなのだ。死んでるのか生きてるのかよくわからないやつらへ向けた、「生きろ!」の書なのだ。

俺は池島監督の現場を見たことがあるわけでもない。でも俺が取材で接したり、mixiの日記を読んだりした中で言えるのは、池島さんは知性と教養を基盤とする人だ。そして「今、この瞬間」をとことん楽しもうとする人だ。スケベな人だというのは映画見ればよーくわかるし、若いころ(今も?)相当遊んだであろうことも匂い立つ。なんせ、楽しむってことなんだ。自分に自信がある人っていうのは、他人を貶して自分を立てる、みたいなみみっちいことをしない。だから、批判的な言辞は全編を通して非常に少ない。あっ、四天王以降のピンク監督へのちょっとした批判はあるけど、やっぱり説得力はある。また、聴き手が松島さん(ピンク大賞の名司会者)であることが最大の強み。池島監督に負けず劣らずお喋りなあの方の、該博な知識とピンク映画への偏愛がこうした語り口を可能にしたことは言うまでもない。

この書物を見て分かることは、四の五の考えずにやっちゃう、ということだ。変にしゃちほこばって気取らないということだ。

「ケツの穴を見せるって俺はよく言うんだけど。人に見せたくない、自分の恥ずかしい部分をね。でも、それを見せなければ観る人は納得しないんだよ」

「映画ってのはみんなで面白がって撮るものなんだよ。その結果が、いいも悪いもないじゃん。結果、観る人が喜べばダブルでうれしいけど…、とにかく、やってる者が楽しむことが基本だよ」

「軽いホンでも関係ない。いや、軽いもんなんてない! やっぱり作る時は同じなのね。映画は常に最初から全力投球じゃなくちゃダメ。頭っからグワーッといかないと。やっぱ常に必死になんなきゃいかんなと」


こうした言葉に100%賛同します。

ただただ、必読!

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2009年06月11日

「闇金融ウシジマくん」

一日中、内職&プロット。ウー、しんどい。と思っていたが、このところ夢中の「闇金融ウシジマくん」の「サラリーマンくん編」読んで、俺なんて全然ラクしてるな、と思った。漫画の世界をまんま現実の反映、とは思わないけど、わかりやすく象徴化、というかまさに戯画化しうる事例としてこういうケースはあるよな、と。主人公のサラリーマンのように生きることは俺には無理。いやまあ、学歴的にも無理。無理だからこんな人生送ってる。どちらが良いということもなく、どちらも等しくしんどい、ということなんだろう。でもま、俺はラクというかズルをしている気がする。こういう変な後ろめたさは、俺らみたいな中途半端な連中は共通で抱いているものなのかもしれない。

以前、医療関係のシナリオやった時に取材で訪れた大学病院で、この漫画に描かれたような、医者の部屋の前で行列を作るMRたちを見た。あの独特の雰囲気をまんま写しとってる。お医者さんに対する各業者の接し方もまさにここに描かれたような感じ。よく取材してるなぁと思った。

暗い結末に多少の救いを持たせたのも正しい選択だと思う。露悪的なジャンルでありながら、そうした性質を極力隠してるように思う。妄想力に依存することを慎重に避けている。人を興奮させたり、落ち込ませるためだけにモノを作っていない。とにかく、読者が自己の存在(社会全体で見た場合の自分の立ち位置)を客観視させる効果が絶大なのだ。ウーム、面白い漫画だなぁ。毎日数百円単位のカネのことでヒィヒィ言ってる俺には心底身につまされる世界。今のところ、「サラリーマンくん編」と「フリーターくん編」、「フーゾクくん編」がおもろかった。敬服です。

キムチが賞味期限切れで酸っぱくなってきたので、昼も夜も豚キムチ作って喰う。

ソーニャは人がめし喰ってるとき必ず一緒にめしを喰う。
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2009年01月09日

「日本の十大新宗教」島田裕巳著

悪い癖で、筆が止まるとその辺に積んであった本に手が伸びる。島田裕巳の「日本の十大新宗教」。ずいぶん前に買っておきながら手つかずだったもの。タイトル通りの内容。新書らしいコンパクトなまとめ方で、日本を代表する新宗教(と呼ぶそうな)について気軽に知識を吸収できる。中でもやはり出口王仁三郎の魅力が傑出。おもろかった。

中世の鎌倉仏教もそうだし、ここに取り上げられる多くの新宗教も、幕末や戦中・戦後の乱世に誕生している。島田裕巳はこう書いている。

「よく「苦しい時の神頼み」といった言い方がされる。たしかに、人が宗教に頼るのは、悩みや苦しみを抱えているときである。だが、本当に苦しいときには、人は神頼みはしない。不況が長く続き、深刻化しているときには、豊かになれる見込みがないので、神仏に頼ったりはしない。むしろ、経済が好調で、豊かになれる見込みがあるときに、人は神仏に頼る。高度経済成長は、まさに神頼みが絶大な効力を発揮した時代だったのである」

すごく説得力があった。なるほど神頼みの実効性がうっすら保証されているところがミソなのな。宗教には「救い」だけでなく、人生に活力を与えるという側面もあるちゅうことや。ちなみに上記は創価学会について触れた項での記述。この本では、現世利益の追求を肯定し、強大な組織力を誇り、社会に対して積極的なアプローチをかける宗教団体が勢力を増し、個人の生活をひっそり支えるだけのささやかな宗教が力を失っていくさまが描かれる。当然ながらどちらかいいとも悪いとも書いていない。ただ現実はそうだと言っているだけだ。

おいらには創価学会の友人もいれば、立正佼成会や神道系の宗派の家庭に育った友人もいる。信仰についてもよく話す。共有できる価値観や問題意識もあれば、決してわかりあえない部分もある。話が白熱し、ある瞬間、その「わかりあえなさ」をお互いがふっと確かめ合う。そういう瞬間がとても大事だなと思う。信仰にはそういう他者性をむき出しにする性格がある。わかりあえること以前に、わかりあえないことを知ることこそ、社会性を持つってことだなと思う。その前提で関係を築いていくと、それはわりかし長続きするものとなる、というのが個人的な感想。

ちなみに母方のおばあちゃんは金光教の熱心な信者だった。岡山の教会本部へ連れていかれたこともある。おばあちゃんとは同居していなかったが、その教えを受け継ぎ、うちではご飯を炊くたびにご神米をひとつまみ入れたり、人間がご飯を食べる前に、神様のご飯を神棚にお供えしたりした。その程度のことだった。それ以外になにもなかった。その習慣もいつのまにか家庭生活から消えていた。「神様」という言葉には清らかさと威厳と、何か純真無垢なものがある。そうしたものへの感謝や畏敬の念を、少なくとも食事の時に軽く意識する。……ずいぶん後になって、俺は神様と共に暮らすあの感覚が好きだった事に気づいた。その非常に素朴で原始的な信仰のあり方は、おばあちゃんの口癖によくあらわれていた。「神様のおかげ」がそれだ。人は誰かに縋りたいと思うと同時に、誰かに感謝したいのである。

けれどそれは金光教が比較的穏健な宗教であり、おばあちゃんが清貧を体現したかのようなすばらしい人格者だったからにすぎないかもしれない。神様という言葉に対してアレルギーや憎しみを抱くことなく成長できたというのは、自分にとってラッキーなことだったと思っている。何らかの可能性というものが、そこにはつねにある。

……俺は年明け早々なんて抹香臭い話をしているのだろう。
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2009年01月05日

「薔薇の館」遠藤周作著

「薔薇の館」。遠藤周作による三幕八場の戯曲。69年に劇団「雲」が上演したらしい。

昭和18年から20年にかけての軽井沢。かつて薔薇の花で彩られていた瀟洒な教会を舞台に、戦争という事態に直面した修道士や信者、教会に集う人々の苦悩が描かれる。戦時中、敵国からの外国人宣教師は追放、あるいは抑留され、教会は監視下に置かれ、信者の若者は次々と戦地へ送られた。その間、ローマ法王をはじめとする”教会”は事態を手をこまねいて見ていただけじゃないか、という断罪の姿勢が根幹にある。

戦時中の教会の姿勢に対する断罪、というテーマは、82年に発表された「女の一生 第二部サチ子の場合」とまったく同じ。「女の一生」の原型のような戯曲ということだろうか。また、「なにもかもしくじった」哀れな目をした男、というイエス像は「死海のほとり」のそれ。遠藤周作の小説をたいして読んでいないけれど、かなりの確率でこうしたテーマやイエス像にぶつかるので、これが氏の作家としての重要な課題だったのだろう。

次から次へと人物たちを追いつめるドラマツルギーの巧みさが、少々鼻につかないわけではないけれど(特に玉音放送とウッサンの自死との絶妙にずれたタイミングなど)、さすがにぐいぐいと引き込まれた。特に「おおお」と思ったのが、勢子という女性が口にする「神さまなんて人間の創りだしたもので、実は存在しなかったら、基督の生涯なんて、何て喜劇だったのでしょう。ありもしないもののために十字架で死ぬなんて喜劇ですものね」という台詞。いやホント、もしそうだとしたらベルナノスの小説もイワン・カラマーゾフの苦悩もすべて無駄ということになる。でもそのきわきわな感じが、宗教を扱う文学の尽きせぬ魅力だったりするわけだ。また、こうした認識をあえて導入することで、宗教というテーマの相対化を図り、関心のない読み手への間口を広げる効果にもなり得ているわけである。

作中、教会にかくまわれる”アカ”の男が登場する。唯物論者の彼は最後に、「信ずるという意味が少しだけわかるかもしれない」と述べる。イエスというものが「なにもかもしくじった」、哀れな目をした男であれば、信仰の意味がわかるというのだ。とても美しく、ロマンティックな観念だなと思う。つまり個人的には共鳴できないということだが、そこには遠藤周作一流の詩情があり、そこに魅入られてしまう人の気持ちも決してわからなくはない。「田舎司祭」の主人公だってそのようなものだから。

誰よりも小さいこと、誰よりも低いこと、誰よりも無力であること、誰よりも惨めであること。現実的にはマイナスでしかないような要素をかき集めた集大成がイエスであるとする発想は、キリスト教全般に満ちる「逆説」のイデーにかなっているという気はする。現実的に小さく、低く、無力で、惨めな者にとって、きわめて優しい救いの感覚をもたらすという気もする。しかし、彼は同時に「地に火を放つ」改革者でもあったはず。眼前の悲劇を前に項垂れるだけでなく、そいつを変えようとした活動家でもあったはずなのだ。そのあたり、修道士も信者も、あまりにもおとなしすぎる、あまりにも受苦の面ばかり強調されすぎているかな、という印象をもったのも事実でした。「だって受苦がテーマだもん」と言われたらそれまでですが。
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2009年01月04日

「テレーズ・デスケルゥ」「田舎司祭の日記」

体調不良。痛みとかゆみとそれによる不眠症および微熱が日夜波状攻撃を仕掛けてくる。この辛さは本人じゃなきゃわからん。こいつは当面続く。日比谷公園もガザ地区も無茶苦茶や。かといって何か行動を起こすこともままならず、ひたすら家で寝込む日々。師匠の新年会も泣く泣くキャンセル。さればこそ聖なるものへの逃避願望も否応なしに高まる。心とからだを充分に休ませながら、モーリアックの「テレーズ・デスケルゥ」とベルナノスの「田舎司祭の日記」読む。

前者は「ぼくの知っているのは、ただ泥のようにきたない肉体にかくれまじった心の物語だ。テレーズよ、その苦しみがあなたを神まで導くことをぼくは願っていた」「だからあなたと別れるこの歩道で、今後もあなたにはキリストがついていかれることをぼくは願っているのである」といった冒頭の数行が素敵。それだけですばらしい悲劇を一冊読み終えたような気分になれる。遠藤周作の気負った訳文が元気(いや原文読めないから勝手な印象だけど)。あんまり”カトリック文学”という抹香臭さも感じなかった。自由を求める女性が犯罪を犯す。その魂の遍歴を追いかける中編。でも微熱のまんま読んだので熟読したとは言いがたい。また読みます。

「田舎司祭の日記」はもう何度目だろう、近年もっとも繰り返し読んでいる小説で、読めば読むほど主人公の若き田舎司祭の存在が身近になっていく。最初に感じたとっつきにくさが取れ、しだいに作品の輪郭が把握できるようになっていく。文章がすんなり頭に入るようになっていく。それでもこの作品の一体何に惹かれて何度も紐解くのか、結局のところはわからない。いずれにせよ今後まだまだ繰り返し読むことになると思う。

「わたしに相応なヒロイズムはヒロイズムを持たないことであり、わたしには力が欠けているのだから、いまでは自分の死が卑小であることを、できるだけ卑小であることを、わたしの生涯の他の出来事と異ったところのないものであることを望んでいる」

この謙虚さ、誠実さ、愚直さが時として彼を「神の手」に仕立て、悩める誰かに救済をもたらす。彼の立場上、信仰による救済も重要だが、彼はイエスの教えを説くというよりも、彼自身の幼さ、愚かさ、無垢の輝きを無心に押し付けることによって、知らず知らずのうちに相手を救うのである。ここに描かれる「神」は「知らず知らず」のうちにしか彼に力を貸そうとはしない(だが仔細に読むと、いたるところで彼の周りにちいさなちいさな霊的現象が起き続けていることに読者は気づくはずである)。しかも「救い」は必ずしも美談に終始せず、彼に苦い現実を突きつけて終わる。たとえば救ったばかりの相手がその数時間後に頓死する。人は彼にその死の原因を見い出そうとする、といった具合だ。

美しさを求めながらも、無神経な言動や行動で他人を傷つけ、不愉快にさせるリアルな人間像。生々しく一筋縄ではいかない現実。きれいごとの「愛」よりも、まずは現実社会に深く根差す「貧しさ」を徹底的に見据えること。内なるきれいごとを荒々しい現実にこすりつけてみること。読むたびに「これって僧院を出たアリョーシャ・カラマーゾフの物語だよなぁ」と思うが、そのナイーヴな基本構造って文学そのものの大きな魅力の一つじゃないかとも思う。

死ぬ前に一冊だけ本を読んでいいと言われたら、今は迷うことなく本作品を挙げるだろう。

ぼちぼち仕事始め。
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2008年09月26日

『チャイルド44』トム・ロブ・スミス著

『チャイルド44』トム・ロブ・スミス著。

1953年のソ連を舞台にしたスリラー&ミステリー小説。子どもばかりを狙った猟奇的な連続殺人事件が発生。国家保安省捜査官が犯人を追うが、スターリン体制下の「社会主義国家に猟奇殺人は存在しない」という歪んだ無謬性により、犯罪は「ないこと」とされ、子どもは殺され続ける――。

というあらすじを読んで、傑作刑事映画『ロシア52人虐殺犯/チカチーロ』(クリス・ジェロルモ監督)のパクリか、と思ったが、映画のモデルとなった事件及びそのルポルタージュに着想を得たものらしい。同じ事件をモチーフにしても、こちらは全くの別物。完全に独立したフィクション作品だ。

強く印象に残るのは、全体主義国家の生活ぶり。密告と裏切りが社会の隅々に浸透し、人々は疑心暗鬼の無間地獄に陥っている。命の価値はおそろしく軽い。つまらぬ発言や誤解を招く行為でスパイの容疑をかけられ、強制収容所に送られ、あるいはあっけなく処刑される。民衆は極寒の街路で配給に長い列を作り、貧しさのあまり人肉食に走り、自由を封殺された希望なき人生を送り続けるのみ。しばしば北朝鮮の潜入ルポをテレビでやっているけれど、まさにあんな感じ。

主人公のレオは国家保安省捜査官という特権的な地位にあり、はじめは国家の安全を揺るがす人物を排除するエリートとして登場する。生活も比較的豊かで、美しい妻と温和な両親をもち、将来も約束されている。だが彼の仕事は非情だ。疑わしい人物を捜索し、薬物を使用した厳しい尋問を行い、収容所あるいは処刑場へと送り出す地獄の門番。そこにエリート同士の陰湿な確執が絡む。だが、口に泥を詰め込み、胃袋を切り取られた子どもの死体が夥しい数見つかるに至り、レオは捜査官としての使命に目覚めていく。だがそれは国家の望む行為ではなかったのだ。

……という前半は面白い。

1953年はスターリンが死んだ年。3年後にフルシチョフによるスターリン批判演説が行われ、世界中の左翼運動に大きな衝撃を与えるが、スターリンの死はこの作品にも劇的な展開をもたらす。国家と個人との関係性が「そうきたか」といった箇所で切り結ばれ、面白い。

ただ、この小説がロシア人作家の手になるものならばともかく、ケンブリッジ大学英文学科を首席で卒業したような29歳のイギリス人作家の手で書かれているため(というのは偏見かもしれぬが)、問題意識はどこか希薄で、全体主義の恐怖がサスペンスを生むための道具立てに終始しているだけのような気がしなくもない。各シークエンスの最後に小さな驚きをもたらす一文を付け加えて読者の興味を持続させる手法も、王道といえば王道ながら、次第に浅はかに見えてくる。悪役の人物造形の浅薄さもいただけない。

あっという間に読めてしまったし、大どんでん返しが起きる終盤など驚かされるが、息苦しい重圧感を強いる社会主義国家の影を描く前半がもっとも魅力的だった。後半なんて「手に汗握る冒険小説」だが、小説ではなくよくできたプロットを読まされてるみたいだ。と思ったら、謝辞の欄にロバート・タウンの名を発見。どこにでも出てくるなぁ、この御大は。
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2008年09月07日

『聖者は口を閉ざす』リチャード・プライス著

『聖者は口を閉ざす』リチャード・プライス著。

社会の最低辺の団地で生まれ育った白人男がTV業界で脚本家として成功し、何らかの理由で筆を折って故郷へと舞い戻る。男は貧しい子どもたちが通う学校でボランティアの創作講座を始める。ところがある夜、自宅アパートで何者かによって頭を割られる。奇跡的に一命を取り留める男だが、自らに傷を負わせた加害者については堅く口を閉ざす。男の幼馴染である黒人の女刑事は彼の周囲を洗い出すうちに、意外な犯人を突き止める――。

入口は(ありがちな)ミステリー、だが著者の狙いは緻密なプロットで読者を翻弄することではなく、有色人種が多く暮らす底辺社会の人間模様や貧困が生み出す犯罪、人の「善意」がもたらす悲喜こもごもを描くことにある。読み終わるのにえらく時間がかかったが、頁を閉じる頃には深い満足感を得ることができた。

プロローグから怒涛の如く小話が繰りだされ、それは最後まで尽きることがない。無数に編まれる小話によって、主舞台となる貧しい団地の様相やそこに暮らす人々の生活と哀歓が克明に焙りだされていく。故郷の誰よりも金を持っている主人公の脚本家にたかる貧しい連中。彼は憐れみと善意にしたがい愛と金とおせっかいをばらまいていく。彼の「善意」はエゴイズムとしばしば同義となり、あるいは誰かの自尊心を傷つけ、あるいは「カモ」として利用される。だが彼の滑稽なまでの善意を著者は全否定はしない。結果的に彼は多くのものを失い、傷つき、傷つけるが、その人間的な資質が変わることはない。それで良いのだとリチャード・プライスは呟いている。

秀逸なシークエンスがいくつもあるが、白眉は主人公の恋人となる黒人女性との”最後の”ファックシーン。ある種の局面に追い込まれた際、恋人の女はある種の準備をしてことに及ぶ。その透徹した人間洞察に軽いショックを受けた。

リチャード・プライスは大好きな脚本家。『ハスラー2』『シー・オブ・ラブ』『ナイト・アンド・ザ・シティ』『クロッカーズ』等々、傑作ではないかもしれないけど、都会に生きる男女の孤独と犯罪社会の濃密な描写力はピカイチだと思う。とはいえ、前作『フリーダム・ランド』の原作小説は前編で挫折。映画版を見て「ああ、そういう話だったら最後まで読めばよかった」と後悔した。だから本作も若干のかったるさを覚えながらも一応最後まで読んだ。読んで良かったですよ。
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